『一握の砂』石川啄木 著(P.(4)~(6)) 藪野椋十
(P.4)
腕拱みて
このごろ思ふ <注 ここから(P.(4))>
大いなる敵目の前に躍り出でよと
目の前の菓子皿などを
かりかりと噛みてみたくなりぬ
もどかしきかな
鏡とり
能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽きし時
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
(P.5)
よごれたる足袋穿く時の
氣味わるき思ひに似たる
思出もあり
さうぢや,そんなことがある,斯ういふ様な想ひは,俺にもある。二
三十年もかけはなれた此の著者と此の讀者との間にすら共通の
感ぢやから,定めし總ての人にもあるのぢやらう。然る處俺等聞
及んだ昔から今までの歌に,斯んな事をすなほに,ずばりと,大膽に
率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見て
これぢや,もつと面白い歌が此の集中に滿ちて居るに違ひない。
そもそも,歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合
點して居た拙者は,斯ういふ種も仕掛も無い誰にも承知の出來る
歌も亦當節新發明に爲つて居たかと,くれぐれも感心仕る。新派
(P.6)
といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段,全く拙者
のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。
犬の年の大水後
藪野椋十