〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

岩手県 ─ 遠野市 啄木の友だち-佐々木喜善のふるさと 、「遠野物語」

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

遠野市 ─ 啄木の友だち-佐々木喜善のふるさと - 喜善の生家、啄木と喜善、「遠野物語

 

(「啄木の息HP 2005年」からの再掲) 

 

遠野市

 『遠野物語』で知られる遠野市は、啄木と親しく交友した佐々木喜善の生地である。

 遠野三山と呼ばれる、早池峰山・六角牛山・石上山に囲まれた盆地を中心とした静かなところで、冬は岩手県の中でも寒さが厳しい。また、馬の産地でもあり遠野の馬市場は有名だった。 

 

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JR釜石線「遠野駅」
花巻-遠野は約1時間

 遠野駅駅舎の2階は「フォルクローロ遠野」というB&Bスタイルのホテルになっている。「フォルクローロ」は、エスペラント語「民話」の意味だそうだ。

 

佐々木喜善の生まれた町

佐々木喜善(1886-1933)は、現在の遠野市土淵町山口に生まれました。
遠野地方の伝承の世界を柳田國男に語り『遠野物語』の成立に深く関与しました。
自らも柳田國男に触発され昔話の蒐集とその調査研究に力を注ぎ、『聴耳草紙』、『江刺郡昔話』、『和賀郡昔話』など多くの昔話集を編纂し、日本の昔話研究に先駆的な業績を挙げたことから、日本のグリムとも称され、日本民俗学の発展に大きく貢献をしました。

(1)石井正己『日本のグリム 佐々木喜善遠野市立博物館 遠野市立博物館第49回特別展図録 2004

 

  

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  「佐々木喜善の生家」
  
オオデマリが白い手鞠をつけている

 『遠野物語』の話し手・佐々木喜善が生まれた家。43歳で仙台に移るときまで住んだ。この家には、柳田國男など著名な人も訪れていた。現在も佐々木家が生活している。

 交通は、JR遠野駅から早池峰バス西内行き、または恩徳行きで30分、「山口」下車、徒歩5分。

 

 

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  「玄関前の説明板」
  
“遠野の聖地”とある

 「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。」(柳田國男遠野物語』)

 

 

●啄木と喜善

石川啄木佐々木喜善との二人の交友については、啄木研究の側からは、「主に書簡によるもの」とされている。一方、喜善研究の側からは、「啄木と喜善の交遊は明治四四年、同四五年の二か年間でなかったか。しかし、これは啄木の書簡と日記をみてのことで、或いはもっと早期に始まっていたかも知れない」とされている。

(2)森 義真「啄木と佐々木喜善の交友----書簡の背後にあるもの」(『論集 石川啄木 II』国際啄木学会)おうふう 2004

 

啄木と(喜善)は郷土の新聞や雑誌で、早くから既知の間柄だったと思われるが、直接の交際は意外に遅い。(1)

石川啄木全集』第六巻(1978)の日記においては、喜善に関する記述を五か所見ることができ、同第七巻(1979)に収載されている喜善に宛てた啄木の書簡は二通ある。 (2)

 

 

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  伝承園内佐々木喜善記念館」

 

喜善が啄木のことを回想した未発表の原稿に「石川君の記憶」がある。啄木と一番親しく往復したのは、本郷弓町の床屋の2階にいた時分で、自分は小石川の小日向台町に下宿していたので、夜だけだったが、1週間に1度は会っていたと始まる。(1)

おもしろいのは、「石川君はひどく雄弁で、どちらかと言へば早口に多く物語りました。議論家でもありました。然し人の言葉に首を傾げて深く聴き入り、時々、ハ、ハ、と謂ふ語を短く挟んで、うなづくので、折角勢ひ込んで話をして居る者をまごつかせました。何故つてそのハはまた娘のやうに優しく発音されるので、人の心に妙などぎまぎを与へるのでした。……』啄木の相槌や仕草までも詳細に描写できたのは、喜善がすでに昔話の採集で多くの語り手に会ってきたからにほかならない。(1)

 

 

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  「喜善、そして良き理解者たち」
  
右上が折口信夫 その下が石川啄木

 

明治44年(1911)2月20日の啄木の日記に「佐々木繁君からは病気のことを故郷の新聞で見て驚いた見舞状が来た」とあり、啄木が出した返事が知られている。(1)

明治45年1月1日に啄木が出した賀状がある。「あなたはたしか肋膜から腹膜になつたのだといふやうでしたが、私は腹膜から肋膜になって、もうこれまる一年になるのに、まだ愚図々々何もせずに寝たり起きたりしてゐます』などと述べ、明治43年11月、喜善が『岩手毎日新聞』に連載した「田園」を褒めている。(1)

明治45年4月13日に啄木が肺結核で亡くなると。喜善は4月23日の『岩手毎日新聞』に、「啄木氏の永去を悼みて」という追悼文を載せている。(1)

大正11年(1922)7月3日の日記には、「午前、ふと啄木全集を読んで節子さんの臨終に涙ぐまれる……」とある。妻節子が肺結核で死んだのは、大正2年(1913)5月5日だったが、『啄木全集』の「年譜」を読んで、その死を悲しんだのである。(1)

 

 

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  「遠野市立博物館の入口」
  
佐々木喜善の紹介コーナーがある

 

 二人とも青春時代から生涯にわたって日記を書きつづけているが、ちょうど二人の交友時期は、それぞれの日記そのものがあまり記述されていない時期に重なってしまった。
 このことが、これまでの啄木研究者及び喜善研究者において、二人の関係が表だって取り上げられていない大きな要因の一つ、と考えられる。(2)

 岩手から文学で身を立てようとして上京し、本来の夢を果せなかった啄木と喜善。互いの日記の希薄な時期に交際したために、これまで二人の交友はあまり表面に出てこなかったと言える。(2)

 しかしながら、喜善が作品を発表した「芸苑」「文庫」を啄木は読んでいた。また、啄木が作品を発表した「明星」や、「スバル」「詩歌」を喜善は読んでいた。さらに、二人が作品を発表した 「秀才文壇」や岩手の「岩手毎日新聞」と「曠野」を、二人は東京などで読んでいた。(2)

 

遠野物語の中の「オシラサマ」「川童」

 

 

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  伝承園内「御蚕神堂(オシラ堂)」
  
オシラサマ千体の展示

 「オシラサマ」とは養蚕の神様、馬の神様、農業の神様とも言われている。遠野のオシラサマには,娘と馬の悲しい恋の話がある。

----- 昔ある処に貧しい百姓と娘が一匹の馬を養っていた。娘がこの馬を愛して馬と夫婦になる。父はこの事を知り馬を桑の木につり下げて殺す。娘は、驚き悲しみ桑の木の下に行き、馬の首に縋って泣く。父は斧をもって馬の首を切り落す。たちまち娘はその首に乗ったまま天に昇る。

馬をつり下げた桑の枝でオシラサマという神の像を作る。-----

 

 

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ホントにいるかな「カッパ淵」
木の下にはひもで結んだキュウリ

 

----- ある日、馬曳の子が淵へ馬を冷やしに行った。遊びに行っている間に、川童が馬を引き込もうとした。だが、逆に馬に引きずられて、厩の前まで連れて来られ、馬槽に隠れていた。家の者が馬槽を開けてみると川童の手が出てきた。

 村中の者が集まって殺そうか宥そうかと評議したが、結局今後は村中の馬に悪戯をしないという堅い約束をさせて川童を放した。-----

 

●公職者としての喜善とその死  

 喜善は岩手医学校(現岩手医科大学)、哲学館(現東洋大学)、早稲田大学文学部に学ぶがすべて中退する。そして、郷土研究をする一方、土淵村の農会長から村会議員、村長にまでなる。

 しかし、村の電灯問題、耕地整理組合の借金問題などで悩む。その上、持病が悪化したこともあり故郷をあとにして花巻や仙台へ療養に行く。

 1933年(昭和8)、腎臓病のため仙台の自宅で死去。享年46歳。

 

 

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「高清水高原から見る遠野盆地」
喜善生家は この写真よりも左上ある

 

 


引用・参考文献

(1)石井正己『日本のグリム 佐々木喜善遠野市立博物館 遠野市立博物館第49回特別展図録 2004

(2)森 義真「啄木と佐々木喜善の交友ー書簡の背後にあるもの」(『論集 石川啄木 II』国際啄木学会)おうふう 2004

(2005-初夏)