◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
愛知県:犬山市 明治村「本郷 喜之床」-名作を生んだ家、グルメな啄木、日記の中の「喜之床」
(「啄木の息HP 2001年」からの再掲)
野外博物館の明治村
愛知県犬山市の明治村は、文明開化を象徴する建造物を保存・展示する野外博物館である。池に面した約100万平方mの敷地には、60以上もの建造物が並び、当時の家具や調度品もあわせて展示されている。
駐車場からは「明治村北口」が近い
北口から入ると目の前が「東京駅」。ここの蒸気機関車(SL)は東京-名古屋間を5分で往く。しかも乗車料金は大人300円。白い煙を高くはきながら、緑の村内を走っている。
●名作を生み出した「喜之床の二階」
本郷「喜之床」は小泉八雲の家の隣
この家は東京本郷弓町にあった新井家経営の理髪店「喜之床」である。1907年(明治40)に店を新築した。
盛岡中学の先輩金田一京助の紹介で、1909年(明治42)6月から約二年間、啄木が東京ではじめて家族と生活をした新居である。
台所と便所は階下の家主と共同使用。啄木一家は二階六畳二間。通りに面して窓のある部屋、西向き、襖で仕切られて部屋があり、張り出した物干が付いていた。啄木はここで文学生活をしながら東京朝日新聞に勤めていた。
江戸の伝統を伝える二階建の町屋の形式を踏襲してはいるが、散髪屋としてハイカラな店構えに変化してきている。
(右隣に見える屋根は、小泉八雲避暑の家-焼津-)
二階六畳間から遠くを見ている啄木
この床屋は明治後期から大正初期にかけての商家の形式である店の正面をガラス張りにしている。当時の新しいスタイルである。床屋は、ハイカラにはバーバーとも言われ、庶民の暮らしに欠かせない店屋であった。
「喜之床」は<登録有形文化財>
図面右側が二階平面図である。この六畳二間に妻節子、娘京子、母カツ、途中から父一禎(また途中で家出)、妹光子(看病等で滞在)そして啄木本人が生活した。
引越したその日から始まった妻節子と母カツとの確執、節子の家出、長男真一の誕生と死、文字通りの喜怒哀楽の日々が続いた。
またこの部屋で、評論「食ふべき詩」・小説「我等の一団と彼」・評論「時代閉塞の現状」・歌集「一握の砂」・詩集「呼子と口笛」などが生み出された。
旧所在地 東京都文京区本郷
建設年 明治末年頃
解体年 昭和53年
移築年 昭和55年
建築面積 14.3坪
構造 木造二階建
寄贈者 新井光雄
店内の鏡や椅子
流行に左右され、清潔であることが売り物となる理髪店の常として、この店の内部も著しい改造が加えられていた。
店内の飾り付けは同時代にあった新潟の入村理髪店(にゅうむらりはつてん)から送られた鏡や椅子等を置いてある。
店内左側には角火鉢と座布団
順を待つ人が世間話をしながら使ったのだろう。
店内の展示品は「啄木と食べ物」
石川啄木は生活の苦しみを詠った歌人として知られているが、実は食べることが大好きで、食べ物の歌をたくさん残している。意外とグルメだった。
ひとしきり静かになれる
ゆふぐれの
厨にのこるハムのにほいかな
新しきサラドの皿の
酢のかをり
こころに沁みてかなしき夕
或る時のわれのこころを
焼きたての
麺靤(パン)に似たりと思ひけるかな
「喜之床」の裏へ回ってみる
1911年(明治44)頃には、母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなった。8月、結核を案じた家主が、客商売であることを理由に立ち退きを迫る。
啄木一家が利用した出入り口?
8月7日、病に伏せていた啄木に代わって、やはり寝たり起きたりの妻節子が探した小石川の家に移る。啄木は翌年(明治45)4月 、26歳2か月の生涯を閉じた。
図面から見ると、啄木一家はこの写真の右端の出入り口を利用していたのではないだろうか。
●啄木日記に出てくる「喜之床」
NIKKI. I. MEIDI 42 NEN. 1909.
二十日間
(床屋の二階に移るの記)
本郷弓町二丁目十八番地(注.1)
新井(喜之床)方
・宮崎君から送ってきた十五円で本郷弓町二丁目十八番地の新井という床屋の二階二間を借り、下宿の方は、金田一君の保証で百十九円余を十円ずつの月賦にしてもらい、十五日に発ってくるように家族に言い送った。
十五日(注.2)の日に蓋平館を出た。荷物だけを借りた家に置き、その夜は金田一君の部屋に泊めてもらった。異様な別れの感じは二人の胸にあった。別れ!
十六日の朝、まだ日の昇らぬうちに予と金田一君と岩本と三人は上野ステーションのプラットホームにあった。汽車は一時間遅れて着いた。友、母、妻、子……俥で新しい家に着いた。(注.3)明治四十三年四月より
四月五日
・好い加減な年をした大家にも子供みたいな心があるのだから可笑しい。
・木村爺さんから五円かりる。三円は下へ家賃の残り払ふ。
明治四十四年当用日記
二月四日
・病院の第一夜は淋しいものだつた。何だかもう世の中から遠く離れて了つたやうで、今迄うるさかったあの床屋の二階の生活が急に恋しいものになつた。
<二月十三日 ・午前に床屋をよんで髯を剃つた。>(注.4)
四月九日
・ 筋向ひの家の桜の花が風に散つて、家の前まで飛んで来た。バルコンに含嗽をしてゐると、妙に風があたゝか〔か〕つた。
八月六日
・下の新井の世話にて山幡文次郎より二十円借る。期限十二月限り、利子年三割。
新井にては明日引越に付先月分及今月分の家賃をまけてくれる事になりたり八月七日
・本日本郷弓町二ノ十八新井方より小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す。予は午前中荷物だらけの室の隅の畳に寝てゐ、十一時俥にて新居に入りすぐまた横になりたり。いねにすけらる。
門構へ、玄関の三畳、八畳、六畳、外に勝手。庭あり、附近に木多し。夜は立木の上にまともに月出でたり-----
注.1:本郷弓町二丁目十八番地は誤り。正しくは、本郷弓町二丁目十七番地
注.2:1909年(明治42)6月15日
注.3:「二十日間」からここまでは、ローマ字表記
注.4:入院中なのでこの床屋は病院出入りの人と思われるが、一応列記する
- 主要参考資料
・博物館明治村公式ホームページ
- ・「博物館明治村ガイドブック」博物館明治村編 名古屋鉄道株式会社 2004
- ・「石川啄木事典」国際啄木学会編 おうふう 2001
・「石川啄木全集」筑摩書房 1986
(2004-冬)