〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

岩手県:盛岡市 岩手大学内の井戸・玉山村の金谷家

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

岩手県盛岡市 岩手大学、妻節子の生家跡、金矢家、常光寺、渋民公園、宝徳寺、あこがれ橋

  (「啄木の息HP 2004年」からの再掲)

 

岩手大学構内と啄木ゆかりの跡

 盛岡市のほぼ中心にある岩手大学

 岩手大学は,盛岡駅から北東へ2km,盛岡市のほぼ中心部に位置している。キャンパスの広さは42haもある。また、東京-盛岡間は東北新幹線で2時間半足らずの距離である。

 盛岡農林専門学校,盛岡工業専門学校,岩手師範学校と岩手青年師範学校を併せ,農学部、工学部、学芸学部を持つ新制大学として,1949年(昭和24)に設置された。

 

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    岩手大学正門
   “祝 入学”の幟がはためく

 

農業教育資料館

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岩手大学農学部附属 農業教育資料館
宮沢賢治モニュメント

 

 写真手前の大きい黒いシルエットは宮沢賢治の像で、2002年5月18日建立された。全国で唯一肖像権を持っているモニュメントである。

 宮沢賢治も学んだ盛岡高等農林学校時代の校舎は、1912年(明治45)5月起工・同年(大正元年)11月竣工した。ほとんど建築当時の姿を留め、保存状態も良好で、1994年(平成6年)国の重要文化財に指定された。宮沢賢治の得業(卒業)論文などを展示している資料室が公開されている。

 

啄木の妻・堀合節子の生家跡

 

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啄木の妻・堀合節子の生家跡

 

 石川啄木の妻節子の生家は、農業教育資料館前の広場付近にあった。

 啄木の妻となった堀合節子は、1886年(明治19)年10月14日、岩手県岩手郡上田村新小路十一番地に生まれた。
 1887年(明治20)の「土地台帳写し」や「盛岡高等農林学校敷地変遷図」などの資料に基づき、上田与力小路を基準にとり正保3年の「武家屋敷割りの定め」にしたがって実測・勘案を行った。その結果、節子の生家は、現在の農業教育資料館正面・温室前通路から温室を含む、現広場の一画にあったとほぼ特定できた。

 

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中央は節子生家跡の「井戸」
後方の壁は温室

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岩手大学自然観察園内の   
アズマイチゲ」 
  

 

 

常光寺・金矢家・渋民公園・宝徳寺・あこがれ橋

 啄木生誕の寺 常光寺

 父石川一禎は、1875年(明治8)2月1日に岩手県岩手郡日戸(ひのと)村曹洞宗常光寺の住職として赴任した。

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曹洞宗 日照山常光寺

 

 啄木はこの常光寺に1886年(明治19)2月20日生まれた。(真の誕生日は決まっていない。明治18年10月や12月の説などあるが証拠がなく、現在は戸籍上の1886年(明治19)2月20日とすることに落ち着いている)

 生まれた場所も、庫裏説と付近の農家説とがあり、定まっていない。

 

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常光寺の床の間
金田一京助の筆による掛軸

 

 常光寺に生まれたことは、啄木の運命を決定したといってもよい。ここは山深いところなので街道筋の寺を希望していた一禎は気位高く、村人とよく交わらなかった。

 啄木はこの寺で、一禎が渋民宝徳寺へ移るまでの1年1ヶ月を過ごした。
 現在では当時の寺は改築されたが、啄木の生まれた部屋は保存されており、また境内には金田一京助による「石川啄木生誕の地」の碑がある。

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父一禎が寄進した六地蔵

 

 一禎は、この六地蔵もたてた。一番右の地蔵下台石に「当山廿二世一禎代」と記されてある。
 「一禎代」と書かれた太鼓、鐘、雲板も残っている。

 

啄木を支えた金矢家

 金矢家は、啄木の唯一の新聞連載小説「鳥影」の舞台になった。この写真の場所に元の屋敷が建っていた。

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啄木を支えた金矢家の庭

 

 金矢家は渋民村の大地主で、その子弟の勉学のため盛岡の仁王小路に一戸をかまえた。啄木は渋民村からの知り合いなので金矢家に出入りしていた。 

 一方、節子は金矢ノブと下の橋の小学校も盛岡女学校も同級で伸良しだった。ノブを訪ねるうちに啄木と知り合い、二人の間柄はだんだん進展していった。ノブは、啄木と節子の縁をとりもった重要な人である。

 

啄木最初の歌碑のある渋民公園

 

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   岩手山をバックに啄木の第一号歌碑

 

   やはらかに柳あをめる
   北上の岸辺目に見ゆ
   泣けとごとくに

 

 建立にあたっては、盛岡啄木会や東京啄木会が中心となり、文芸講演会や街頭募金などで資金を集めた。歌碑にした石材は、渋民村民二百人が雪の上を木橇を作って3日がかりで運び、1922年(大正11)4月13日、岩手山を仰ぐ北上河畔に建てられた。

 

玉山村渋民の宝徳寺

 

 啄木の成長見守った「ふすま絵」

 

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「松桜図」
幼い啄木は、このふすま絵を見て育った

 

 一禎は1887年(明治20年)1歳の啄木を連れて同寺の15代住職として入山した。1977年に焼失した本堂の再建に尽力し、檀家の協力を得て1890年に落成。啄木はここで1歳から18歳までを過ごした。

 2000年、本堂を新築し、ふすまの下張り調査を行ったときに、1000通の下張り文書と12枚のふすま絵が発見された。ふすま絵は、啄木の父の一禎が住職を務めていた時代に、渋民の絵師沼田北村によって描かれたものと判明した。

 

 

下張り文書調査

 

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 当時のふすまは、必要のなくなった帳簿の紙などをリサイクルして下張りし、白色に下塗りをした上に絵を描いたという。発見されたものは2枚の下張りに保護され、鮮やかな色のまま残っていた。

 

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  細かい欠片も大切に干す

 

 文書に水をかけ竹串でていねいに糊をはがし、一枚一枚干す。文書は裁ち切って使用されているため、元の順序通りに復元するのは困難である。

 

「あこがれ橋」 

 

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出来たばかりの「あこがれ橋」

 

 大橋川(おばしがわ)にかかる「あこがれ橋」は、石川啄木記念館から徒歩7~8分のところにある。
 バックには、姫神山が優しい稜線を見せている。

 

 

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デザインは処女詩集「あこがれ」の表紙より

 

 啄木は1905年(明治38)に処女詩集「あこがれ」を小田島書房から発行した。集録作品数77篇で定価50銭であった。

 この橋の他に「ほたる橋」「ふるさと橋」がある。

 

主要参考資料

ミュージアムガイドブック」 岩手大学ミュージアム
石川啄木 実地研究」啄木ゆかりの地巡り ガイドブック
             国際啄木学会盛岡支部 作成 森 義真
大学案内ウェブページ 岩手大学
石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001

 

(2004-春)