〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「初めて並ぶ “郁雨と啄木の歌碑” を訪ねて」新潟県新発田市 <6>

郁雨の古里に並ぶ 郁雨と啄木の歌碑 <6>

趣のある立ち姿

「思いのままに生きた啄木」

         宮崎顧平(故宮崎郁雨氏実弟

 

・私は石川啄木の義弟宮崎大四郎(郁雨)の実弟であるが、私の啄木に対する印象は、実に吹けば飛ぶような淡い印象でしかない。それは啄木が二十二歳で函館に来た当時、私が僅か十三歳の時の印象であるからである。

 

・私の知っている限りでは、私の実家を訪れた「紅苜蓿」社の同人は、吉野白村、岩崎白鯨、石川啄木の三人だけであったが、集まった室は実家の茶の間に隣接している狭い六畳間で上り口は茶の間と共に土間から一段高いところにあり、その室の外側は格子戸になっていて、屋根との間の空路は家鳩の住家であったから、時々、鳩の鳴き声が聞こえて来る室で、この室は兄大四郎が常に店の帳場に使用していたのである。

 

・同人達は時々かわるがわるトイレに行くために室から出て来た。

 

・13歳の少年であった私は、啄木と直接話をする機会はなく、啄木が私の実家のトイレに通う往復に、私の立っている前を通過する時、「これが郁雨の弟だなー」と笑顔で私を見ながら立ち止まっていったのを見て、私はとても嬉しく思ったものである。それは兄はいつも私に「啄木という人は盛岡から来た人で、とても立派な文学者であり、和歌等も上手に作る人だ」と教えていたからである。

 

・私の啄木に対する印象を、現在八十三歳の私が卒直簡潔に示すならば、啄木ほど自分の思想、希望、行動を何の蟠りなく、すらすらと自由に言葉として云い、文章に書き尽し、能動的に行動し、自分の損得や他人に対する影響等一切超越して、自分の思いの念ずるまま進めていった人は、世には余りないのではないか、(略)何の矛盾も、不安もなく全く虚心坦懐なのである。そこに啄木の偉大さがある。

 

(『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))

 

 

 

道を通る人は自然にこの大きな歌碑に目が止まり、保育園生も登園する度に見ることができる。

松浦保育園は、国道290号線から50mほど離れたところにある。

保育園の周囲は家に囲まれているが、人通りはほとんどなくとても静か。

時折、保育園に用事のある人たちが訪れるくらい。

 

郁雨と白村

―― 啄木をめぐる郁雨未発表書簡――

       冷水 茂太

 

・啄木日記「函館の夏」には、
「宮崎くんあり(大四郎、郁雨)これ真の男なり、この友とは7月に至りて格別の親愛を得たり」
と書かれている。この「格別の親愛」とは、啄木の宮崎からの最初の借金のことであろう。

 

・(郁雨は)昭和8年、家業を廃し、函館慈恵院常務理事として恵まれない人々に奉仕、戦後もずっと社会福祉事業に尽瘁し、昭和37年3月29日、78歳をもって没した。苜蓿社同人がみな早世した中で唯一人長寿を全うした。著書に『函館の砂』(昭和38年刊)がある。

 

・其の人柄は気が弱いくらいの温厚純情居士で、阿部たつを著『新編啄木と郁雨』(昭51刊)には、郁雨の人間像が浮き彫りにされているが、その中で阿部は郁雨のことを「優秀なスポーツマン、忠良なる軍人、清潔な商人、篤実なる社会事業家、永遠の文学青年」とよんでいる。

 

(『啄木研究 第7号』洋々社 昭和57年1月発行(1982年))

 

(つづく)

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