郁雨の古里に並ぶ 郁雨と啄木の歌碑 <4>
永遠の好意と友情を讃えて
宮崎大四郎(郁雨 1885~1962)と石川一(啄木 1886~1912)が明治40年5月5日函館で出会ってから歌の友として生涯の付き合いが始まった。その後、義兄弟の縁を結ぶが啄木の天性の才と篤い友情の郁雨とにより26歳で夭折した啄木の歌集「一握の砂」は世に出る事となった。誠に人として温かい友情と好意の何たるかを人に示すものである。私たちは人の地縁、助け合いの大切さと啄木が歌壇に与えた功績に感動して、その偉業の原点の何たるかを心に刻みたいと思う。
ここに啄木の望郷の念安かれとの渋民における歌碑に遅れる事100年、宮崎郁雨の思いを生誕地にむかえ、歌碑を建立しその生き方、友情を讃えるものである。
令和4年6月12日
主催 新発田城南ロータリークラブ(クラブ創立55周年記念)
協賛 函館亀田ロータリークラブ(友好クラブ締結25周年記念)
荒川集落賛同者 一同
郁雨の父・竹四郎は函館で「浜かせぎ」や日雇いなどして苦しい生活を続けたが、金久(かねきゅう)を屋号とする味噌製造所の経営者となった。
郁雨は、1905年(明治38年)、北海道庁立函館商業学校を卒業。1906年(明治39年)文芸結社「苜蓿社」に加盟する。
父の家業が軌道にのってきたからこそ、「苜蓿社」で出会う啄木に援助ができたといえる。
1907年(明治40年)出版の『富の函館』(著者 桑高賢午, 小野栄蔵 編)には、函館味噌製造組合の組合長として宮崎竹四郎の名前が出てくる。
▶︎宮崎函館味噌製造場
・函館第一の味噌製造場として金久宮崎味噌製造場の名を知らざる者は恐らく之れ無からむ、而かも同製造場が全国第一流なる事を知らざる人は多かるべし。然かし乍ら登録商標金久味噌の品質優等風味醇良にして価格低廉量目豊富なる事実を見るに及ばゞ、其の市場に於ける好評嘖々驚くべき多数量の需要を見るなるべし。
・経営者は実に立志伝中の人にして誠実勤勉篤実の紳士なり常に正直は最良の愛嬌なりと称す以て其の人格並に営業振を想像するに足らむ。電話八百九番場主宮崎竹四郎氏。
国立国会図書館 デジタルコレクション
: 一名・函館案内
(つづく)
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