〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木は苦悩の末 東京朝日新聞の時代に大輪の花を咲かせた

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ドウダンツツジ

新・木曜「カルチャー・考える」【北の文化】

記者・石川啄木  小林芳弘<国際啄木学会会員>

才能買われ異例ずくめの入社

  • 石川啄木は19歳で結婚する前、妻節子の父から将来何で生計を立てるのか問われて「新聞記者」と答えたという。結婚翌年の明治39(1906)年、盛岡郊外の故郷・渋民の小学校の代用教員に採用されたが、ストライキ騒ぎを起こして1年余りで職を追われ、函館へ渡って函館日日新聞の遊軍記者となった。義父との約束を果たしたのも束(つか)の間、大火に遭って1週間前後で失職する。
  • 創刊直後の小樽日報に転じ、同僚に童謡「赤い靴」「シャボン玉」を後年発表する野口雨情がいて、記者のイロハを教わった。
  • その後、釧路新聞3面主任に迎えられ、在職した約2カ月間に評論、演芸、時事ニュースなど幅広い分野に健筆をふるった。
  • 明治41(1908)年、妻子を函館在住の義弟・宮崎郁雨に託して上京する。1年以上過ぎて家族を呼び寄せられたのは東京朝日新聞の校正係に採用されたからである。
  • 入社の経緯をめぐっては、啄木が求職の手紙と履歴書を送り、面接の約束を取り付けた初対面の佐藤真一編集長と「やあ!」「やあ!」と挨拶(あいさつ)を交わしてアハハハと笑い合い、2分間で決まったと伝えられる。だが、巡査の初任給が12円ほどの時代に啄木は月給30円を要求した。就職がそう簡単だったとは考えにくい。しかも当時、校正係に欠員はなく、採用は4月と決まっていた。啄木の3月入社は異例ずくめである。

 

  • 少年期に岩手日報から叱咤(しった)激励を受け、通算1年を過ごした北海道の新聞社で記者修業を重ねた啄木は苦悩の末、東京朝日新聞の時代に大輪の花を咲かせたのである。

(2022-03-24 朝日新聞>地域>北海道)

 

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