紅苜蓿 <6>
-啄木の歌に登場する花や木についての資料-
潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇よ
今年も咲けるや
(浜薔薇 = はまなす)
- 啄木は「紅苜蓿」に健筆をふるうかたわら、毎日のように大森浜を散策し、人知れず漂泊の涙を流し、わが見る「生命の海」に、わが聴く「波浪の諧音」に、詩人としての転生を期した。
- 啄木は一年にわたる故郷での葛藤を反省し、宝徳寺再住の醜い争いから遠く離れた函館の地で、美しい自然に身をゆだねながら、詩人としての自己を危ぶくも立て直そうとし、その契機を大森浜に求めたのである。
- 「紅苜蓿」明治四十年六月号に発表された「水無月」「蟹に」「馬車の中」など、函館で作られた啄木の詩は、いずれも漂泊者の独白であり、旅によって生まれた芸術である。
(岩城之徳・後藤伸行 『切り絵 石川啄木の世界』 ぎょうせい 昭和60年)
- 紅苜蓿(れッどくろばあ)の誌名については、北海道初期の開拓長官黒田清隆が、北海道の開拓に米国から耕作用の農機具を移入したとき、その農機具に付着して来た紅クローバーの種子が、いつともなく各地にひろがって、北海道特有の可憐な野花となっていたので、それにあやかってのものであった。ただし、「広辞林」では、苜蓿(うまごやし 馬肥)は黄色の小さな蝶の形の花が咲く牧草となっている。
「海峡」に書かれてある郁雨の回想
彼は万一を僥倖して渡函を申越したのであった。折柄五月号の編輯で原稿難に悩んでゐた私達は一議に及ばず歓迎することに決めた。私が「鶏舎へ孔雀が舞込む様なもんだねえ」と言って皆を笑はせたことを思出す。当時の啄木の詩名はそれ程私達の間に著聞してゐた。唯見栄坊の啄木は詳しい身上の事など言越さなかったから、彼の八方閉塞の窮状は私達の想像も及ばぬことで、無論旅費など送って居ない。彼が僅か九円余の旅費を工面するために、自分の夜具を入質したりして苦心惨憺したことは彼の日記に瞭然である。
(金野正孝 『函館の啄木と節子』 啄木と節子をたたえる会発行 昭和62年)