◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
啄木を看取った若山牧水 そのふるさとは宮崎の坪谷 <4>
若山牧水記念文学館 封筒
幾山河
こえさり行かば
寂しさの
はてなむ国ぞ
けふも旅ゆく
牧水
『石川啄木事典』
牧水と啄木の最初の出会いは、1910年(明治43)6月の「大逆事件」の後の11月、浅草の路上のことであった。その後、翌年の2月、原稿依頼のため牧水は啄木を訪ねている。その日の啄木の日記には次のようにある。
二月三日
午前に太田正雄君が久しぶりでやつて来た。診察して貰ふと、矢張入院しなければならぬが、胸には異状がないと言つてゐた。そのうちに丸谷君が来、土岐君が来た。
雑誌のことはすべて予の入院後の経過によつて発行日その他を決することになつた。
夜、若山牧水君が初めて訪ねて来た。予は一種シニツクな心を以て予の時世観を話した。声のさびたこの歌人は、「今は実際みンなお先真暗でござんすよ。」と癖のある言葉で二度言つた。(日記 明44・2・3)
とあり、「予は一種シニツクな心を以て予の時世観を話した」と言っている。それに対して牧水は「お先真暗でござんすよ」と応えている。この頃から啄木の病気も一段と行進し、妻節子も肺尖カタルで倒れ、どん底の生活が続く。1912年(明45)4月11日、牧水は啄木を病床に尋ねる。同13日、啄木は、妻、父そして若山牧水に看取られて永眠する。(『石川啄木事典』おうふう 国際啄木学会編 2001年)
若山牧水記念文学館パンフレット
「気持ちの好い男逝く」
• 「悲しき玩具」や「一握の砂」で知られる歌人、石川啄木(1886~1912)の最期をみとったのが、同じ歌人の若山牧水(1885~1928)だったことは、あまり知られていないのではないか。
• 宮崎出身の牧水が岩手出身の啄木と出会ったのは、啄木が亡くなる2年前。前夜から北原白秋らと遊び回り、夕方、そろそろ帰ろうかと歩いていた道端でのことだった。もともと啄木の歌が好きだった牧水は、その時の第一印象を「恐ろしく気持ちの好(よ)い顔をした男」と記している。
青塗(あおぬり)の瀬戸の火鉢によりかかり眼(め)閉ぢ眼を開け時を惜(おし)めり 啄木
• だが、牧水が健康で快活な啄木の姿を見たのはそれが最後だった。その後、牧水は雑誌の編集の仕事で、病に伏した啄木のもとを訪れるようになる。最初の頃は青い火鉢にしがみつくようにして社会を論じ気炎を吐いた啄木だが、会うたびに衰弱していった。
• 「若山君、僕はどうしても死にたくない」。啄木は牧水だけには震える心を吐露する。牧水は、啄木には買えない薬を手に入れるため金策に奔走した。明治最後の年の4月、啄木は牧水ににっこり笑いかけた後、意識を失い、息を引き取った。享年26。
初夏の曇りの底に桜咲き居りおとろへはてて君死ににけり 牧水
(2018-04-06 西日本新聞)
パンフ
「啄木臨終の記」若山牧水
昨年の四月十三日の午前七時ごろ、私は車夫に起された。石川君の妻君から同君の危篤の迫つたことを知らしてよこしたものであつた。すぐ馳けつけてみると、座に一人の若い男の人がゐた。あとでその人が故人の竹馬の友金田一京助氏であることを知つた。故人は、案外に安静であった。何しろ二年ごし病んでゐたので、実に見るかげもなく痩せ衰へてゐた。蒼暗い顔には誠に頬骨と深くおちこんだ両眼のみが残つてゐた。安静であつたとは云へ、その前々日かに訪ねた時に比しては、いかにもその朝は弱つてゐた。聞けば午前の三時半ごろからとか、殆ど昏睡状態に陥つてゐたので、夜の明けるのを待焦れて我等二人を呼んだものであつた相だ。私の行つたこともよく了解して、挨拶するやうなまなざしを永く私に向けてゐた。その時、その場に居なかつた細君が入つて来て、石川君の枕もとに口を寄せて大きな声で、「若山さんがいらつしやいましたよ」と幾度も幾度も呼んだとき、彼は私の顔を見詰めて、かすかに笑つた。あとで思へば、それが彼の最後の笑であつたのだ。「解つてゐるよ」といふやうなことを云ひ度かつたのだが、声が出せなかつたのであらう。さうして三四十分もたつと、急に彼に元気が出て来て初めて物を言ひ得るやうになつた。勿論、きれぎれの聞取りにくいものであつたが、意識も極めて明瞭で、何か四つ五つの事について談話を交はした。私から土岐君に頼んで、土岐君が東雲堂から持つて行つた原稿料の礼を何より先きに彼は云つた。あとでは、そのころ私が発行しやうとしてゐた雑誌の事などまで話し出した。その様子を見て、細君も金田一君もたいへんに安心して、金田一氏はこのぶんなら大丈夫だらうと、丁度時間が来たから私はこれから出勤するといつて帰つて行つた。それから何分もたたなかつたらう。彼の容体はまた一変した。話かけてゐた唇をそのまま、次第に瞳があやしくなつて来た。私は遑て細君を呼んだ。細君と、その時まで次の部屋から出て来なかつた同君の老父とが出て来た。とかくして私は危篤の電報を打ちに郵便局まで走つて、帰って来てもその昏睡状態は続いてゐた。細君たちは口うつしに薬を注ぐやら、唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしたが、甲斐あるやうに思はれなかつた。私はふとその場に彼の長女の──六歳だつたと思ふ──ゐないのに気がついて、それを探しに急いで戸外に出た。そして引返した時には、老父と細君とが、一緒に石川を抱きあげて低いながら声を立てて泣いてゐた。私はその時あはただしく其処に立入つたのを烈しく苦痛に感じて立ちすくんだ。老父は私を見ると、かたちを改めて、「もうとても駄目です。臨終のやうです」と云つた。そしてそばにあった置時計を手にとつて、「九時半か」と眩くやうに云つた。時計は正に九時三十分であつた。
石川啄木が学んだ盛岡高等小学校(現在盛岡市立下橋中学校)の校門前には、啄木・牧水友情の歌碑がある。
石川啄木・若山牧水 友情の歌碑
教室の窓より遁げて
ただ一人
かの城址に寝に行きしかな
石川啄木
啄木が晩年最も心を許し合った
友人若山牧水は、盛岡を三度訪
れており、啄木がこよなく愛し
歌った不来方城で、啄木を偲
びながら数首詠じております
城あとの古石垣にゐもたれて
聞くとしもなき
瀬の遠音かな
若山牧水
1997年(平成9)5月 建立
こども読本「若山牧水の生涯」表紙
葬儀の手続きや通夜を進めたのは、若山牧水だった。この二人の同年生まれの国民歌人が、明治文学上の奇蹟であるとしたら、啄木の死に向かい合ったのが、多くの友人のなかで牧水一人であったということも、ふしぎなことである。
牧水のふるさと
生家近くからみる牧水のふるさと。
・若山牧水記念文学館
宮崎県日向市東郷町坪谷1271番地(牧水公園内)
(おわり)