〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 石川啄木と大逆事件と…


[ハイビスカス]


 石川啄木と平出修と大逆事件と…)
大正・昭和前期の宗教と社会 島薗進
  第17回 皇室を究極的な善とする治安体制

  • 大逆事件は1910年5月、長野県明科での宮下太吉の爆弾製造過程の露見に端を発した。天皇の殺害を目指していた計画に関与していたとして、26人が起訴された。
  • この大逆事件の被告側弁護団には、若い文学者でもあった平出修(ひらいでしゅう 1878-1914)もいた。平出は、1900年に与謝野寛(鉄幹)の新詩社に加入、『明星』に短歌や評論を発表し始めていた。1903年に司法官試補、翌年には弁護士になっている。この平出は石川啄木と親しかった。
  • 石川啄木(1886-1912)は岩手県曹洞宗の僧侶の子として生まれ渋民村で育ったが、盛岡中学卒業後、盛岡、函館、札幌、小樽などで一時的な仕事に就きながら文筆に勤しんだ。早くから『明星』に投稿し、1905年には詩集『あこがれ』、1906年には小説『雲は天才である』を発表している。1908年前後から、社会主義への関心が増しており、皇室に対する批判的な眼差しも見られるようになる。
  • 1910年6月、大逆事件が報じ始められると、東京朝日新聞社の校正係となっていた啄木は強烈な衝撃を受け、帝国主義批判と社会主義への傾斜を強めていく。8月には、韓国併合を受け、「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」という歌を『スバル』に発表している。同じ時期に東京朝日新聞のために書いたが掲載されなかった「時代閉塞の現状」を書いた。
  • 啄木は『明星』で親しくしていた平出修と大逆事件について詳細にわたる情報を交換していたことがうかがわれる。当時、大逆事件についての報道はごく限られたものであり、かつ取り締まり当局側からの一方的な情報に基づくものであった。啄木は新聞社勤務の便宜と平出との交流を通じて、同時代的には飛び抜けて的確な実情把握を行っていた。それは、「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」によく見て取れる。公表されている情報からだけでも圧政の現状を読み取り、事態の推移を把握し記録しようと力を注いでいたことが知れる。
  • 啄木は自らにも身柄拘束がおよぶかもしれないという切迫感をもちながら、事態の推移を注視していたのだろうと推測できる。

(web 春秋 はるとあき)


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