〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 ビールのモダンさを好んだ天才歌人・石川啄木

[あじさい]


◎歴史人物伝 [キリン歴史ミュージアム]

 ビールを愛した近代日本の人々 日本の暮らしにビールとワインが定着した背景には、さまざまな人の情熱や苦悩がありました。幕末から明治に活躍した偉人たちのビールとワインにまつわるストーリーをご紹介します。


ビールのモダンさを好んだ早逝の天才歌人石川啄木  1886-1912/岩手県出身

◯日記に記されたビールを飲む日々

  • 明治時代後期、ビールは徐々に庶民にまで普及し始めていた。国内生産量が増加した一方、鉄道などの輸送機関の整備はビールの地方都市への出荷を可能にした。
  • この明治後期にビールをこよなく愛した文学者として、歌集『一握の砂』『悲しき玩具』で知られる石川啄木の名が挙げられるだろう。日々の出来事を詳細につづった彼の日記には、ビールの記述が幾度となく登場する。
    • 1907(明治40)年9月10日 4時頃より快男子大塚信吾君来たり、並木君来たり……(中略)予は2、3日中に札幌に向かわんとす。此夜大いに飲めり。麦酒十本。酒なるかな。酔うては世に何の遺憾かあらん。
    • 1908(明治41)年1月3日 晴、温、ぽかぽかした日。金田一君と談った。12時頃岩動康治君が来た。金田一君と3人でカルタ。岩動君帰って将棋……(中略)ビールをのみ、蜜柑を食う。日くれて共に夕めし。
  • 啄木は生涯にわたりビールを好んだ。特に友人らとの社交の場では、数あるアルコール飲料の中から、あえてビールを選択していたようだ。

◯短歌に詠われた孤独で悲しい一人酒

  • 都会にあこがれ、モダンな文化を好んだ啄木は、他方で漂泊の歌人であった。1886(明治19)年、岩手県の日戸村(現・盛岡市玉山区日戸)に生を受け、17歳で最初の上京を果たし、与謝野鉄幹が主催する雑誌『明星』で詩歌を発表すると、その後も多くの文学者と交流を重ね、歌壇で注目を集め始めた。
  • 盛岡時代には学校教員などの職に就くが、こらえ性のなさや気まぐれな性格から仕事は1年として続かない。1907(明治40)年、21歳のときには北海道に渡り、新聞記者、代用教員、校正係などの仕事を転々とする。孤独感を背負い、精神的にも悩み続ける彼が自らの心情を吐露できるのが、一つは言葉(短歌)であり、一つはアルコールであった。
  • 盛岡、北海道、東京を中心に、各地に建立された啄木の歌碑は100を超える。啄木はどんな環境においても短歌を詠むことを忘れなかった。というよりも、啄木にとって短歌とは、呼吸をするかのごとく口からこぼれ出るものだった。
  • 彼は短歌を残したが、その中にアルコールを詠んだ歌は71首あるという(岩手大学公開講座「啄木の魅力、賢治の魅力」高等教育情報化推進協議会)。

  しっとりと
  酒のかをりにひたりける
  脳の重みを感じて帰る   (『悲しき玩具』)

    酒のめば悲しみ一時湧きくるを
    寝て夢みぬを
    うれしとはせし    (『一握の砂』より)

◯ビール広告に触発された評論「食ふべき詩」

  • 終焉の地となる東京で、金田一京助の金銭的な援助を受けながら、彼は文芸活動に打ち込んでいった。上京の翌年、啄木は電車の車内で「食(くら)ふべきビール」と記された「キリンビール」の広告に目を奪われる。「食ふべきビール」とは、「ビールは栄養価が高いので、食事をとるのと同じように、日常的にビールを飲みましょう」という意味が込められたキャッチコピーである。この文句に触発された啄木は、1909(明治42)年12月、「食(くら)ふべき詩」と題した評論を『東京毎日新聞』に発表する。「歌とは特別な創作活動ではなく、日常生活の延長上に位置付けるべきもの」と啄木は宣言したのだ。
  • しかし啄木は、この宣言に基づく創作活動を全うすることはできなかった。「食ふべき詩」の発表から3年後の1912(明治45)年4月、啄木は26年の生涯に幕を降ろす。あふれんばかりの詩才を熟成させるには、あまりにも短すぎる一生であった。(KIRIN歴史ミュージアム


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