〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <2>

啄木文学散歩・もくじ


2 啄木の姉サダの夫が働いた「小坂鉱山」の事務所」


小坂鉱山事務所


秋田県鹿角郡小坂町の小坂鉱山は、江戸末期に発見された。
ヨーロッパの進んだ技術が導入され、黒鉱自熔製錬法の完成と露天掘によって、銀山から銅山に生まれ変わり日本三大銅山として大きく発展した。町には社宅が建設され、「水と電気はタダ」で、住居・医療・体育・娯楽・文化の各施設のほか、郵便局・銀行・警察に至るまで企業が招請、設置した。山間のへき地の中に、こつ然と「都市」が現出していた。(小坂町役場>小坂鉱山の歴史ひとくちメモより)


1905(明治38)年に竣工した「小坂鉱山事務所」のこの写真を見れば、その繁栄ぶりが感じられる。


啄木の一番上の姉サダの夫・田村叶は、日本鉄道会社盛岡工場に勤め、盛岡中学へ通う啄木を同居させていた。しかし、5人のこどもがいる生活はやりきれなかった。生まれ故郷から景気がいい小坂鉱山に何人か就職した話を聞き、1904(明治37)年に小坂鉱山に転職した。この「小坂鉱山事務所」のできる前年だった。叶の仕事は塗装工で、一家で棟割り長屋に暮らし始めた。

当時、鉱山の階級制度はかなりきびしく、塗装工の田村叶の家は畳がなく板の間にゴザを敷いたきり、天井板はなく、隣とのしきりは壁ではなく、板の一枚だったという。(吉田孤羊『啄木発見』洋々社 昭和47年)




玄関ポーチの上のベランダ


ルネッサンス風の外観をもつ木造三階建ての洋館は国の指定重要文化財である。

田村さんの仕事は、鉱山鉄道の客車の塗装や文字書きであったが、とくに文字のうまさは他に比肩する者なく、そのうえ温厚な人柄と共に、たいへん重宝がられた存在だったということである。(吉田孤羊『啄木発見』洋々社 昭和47年)


しかし、幼い子どもが5人いて知人も少なく親類もない土地での生活は、サダの健康をむしばみ、1906(明治39)年2月、肺結核のため31歳で亡くなった。

「水と電気はタダ」、住居も医療も企業が設置したというが、サダが生きていくのは難しかったのだろう。







1階から3階まで欅造りの『螺旋(らせん)階段』
真ん中の柱は一本の秋田杉でできている。

姉・サダの死の知らせを聞いた啄木は、その葬儀にすら参列できなった。なぜなら啄木は「生活的には全く無能力者で」「収入といえば借金するほかに考えなかった」「啄木にしてみると、飛んでも行きたい気持ちだったに相違ない。しかしその汽車賃すらも工面できなかった」(吉田孤羊『啄木発見』洋々社)






パネル展示「小坂鉱山事務所」(郷土館)

「愛する妻に死別するという、人間最大の悲劇に直面して、その実家から誰一人駈けつけてくれるものもなく、見知らぬ他人ばかりのなかで、しかも幼い子供たち五人も残されて、途方に暮れてしまった田村さん」(吉田孤羊『啄木発見』洋々社)






ベランダの装飾


「藤の花」と「田」の透かし彫りで「藤田組」をあらわす。
小坂鉱山事務所は、藤田組小坂鉱山事務所の本部事務所として建てられた。







床一面の航空写真

現在の小坂町の航空写真の上に、昔の写真とその解説がある。

田村サダ


長姉サダの家から盛岡中学に通っていた頃の啄木は、二つの熱に浮かされていた。恋の熱と知識の熱と。サダは優しい姉であった。そして不幸な姉でもあった。16歳で結婚し、貧しい生活の中で5人の子を生し、31歳で帰らぬ人となった。
いつのときも、姉は弟の味方であった。難航していた節子との結婚問題も、彼女の奔走によって婚約にこぎつけることができた。なかなか会えない恋人たちのために、家を留守にしてふたりきりの時間をつくってやったりもした。
(山下 多恵子『忘れな草 啄木の女性たち』 2006年 未知谷 版)

(つづく)