〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

文京区は、啄木文学の生みの親


[マユミ]


 *友の会だより 第71号 2015.7.20.《東京都 文京ふるさと歴史館友の会》
特別寄稿
啄木文学を育んだ文京区
  池田 功 (明治大学教授、国際啄木学会会長)

  • 岩手県に生まれ育った石川啄木が最初に現在の文京区に住んだのは、満16歳(明治35年)の時でした。中学を中退し文学で身を立てようと決死の覚悟での上京でした。
  • その後再び文京区に住むのは、満22歳(明治41年)から26歳(明治45年)で亡くなるまでの4年間でした。
  • 啄木にとって文京区(東京ということも含んでいます)に住んだということは、一体どのような良い点があったのでしょうか。まずは何と言っても文化的な刺激があったということです。与謝野鉄幹・晶子、森鴎外北原白秋伊藤左千夫等に出会っています。綺羅星の如き文化人との交流をしているのです。
  • 朝日新聞社に入社し、それを通じて夏目漱石を二回訪ねています。
  • 啄木はこの文京区の時代に『一握の砂』を刊行し、『悲しき玩具』になる草稿ノートをつくり、詩集を作成し、小説「鳥影」や評論「時代閉塞の現状」を執筆し、「ローマ字日記」を書いたのでした。これらはすべて啄木の代表作とも言えるものであり、今日まで読みつがれています。
  • このようなことを考えますと、もし啄木が文京区に住むことがなかったら、啄木は今日のような作品を残すことがなく、今日のような名声を得ることもなかったかもしれないのです。文京区は、啄木文学の生みの親ともいうべき大いなる地なのです。

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