『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて
啄木日記のなかの渋川玄耳
明治四十二年当用日記
三月一日 月曜
玄耳が見た啄木
校正係として入社した啄木
- 「どっちかといえば無口な……風采もあまり上がらず、いかにも病弱らしい貧弱な体格の人」(吉田狐羊への談話)
三月十一日 木曜 晴 暖
- 晴れた。今年になつての一番あたゝかい日。
- 九時半菓子折をかつて麻布霞町に佐藤氏を訪ねて礼を言つた。かへりに鈴木氏をとふと不在、蒲原氏を訪ふて三十分許り雑談。
- 今日初めて渋川、西村の二氏と話した。
明治四十三年四月より
((本郷区弓町二丁目十八、喜之床(新井)方にて))
四月二日
- 渋川氏が、先月朝日に出した私の歌を大層讃めてくれた。そして出来るだけの便宜を与へるから、自己発展をやる手段を考へて来てくれと言った。
明治四十四年当用日記
一月十一日 曇 温
- 何の事もなかつた。空は曇つてゐた。朝に少し風邪の気でアンチピリンを飲んだ。米内山が来て、東北の田舎でも酒の売れなくなつた話をした。社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。
一月十八日 半晴 温
- 今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であつた。
- 「判決が下つてから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告したゐた。予はそのまゝ何も考へなかつた。ただすぐ家へ帰つて寝たいと思つた。それでも定刻に帰つた。帰つて話をしたら母の眼に涙があつた。
一月二十五日 晴 温
- 社でお歌所を根本的に攻撃する事について渋川氏から話があつた。夜その事について与謝野氏を訪ねたが、旅行で不在、奥さんに逢つて九時迄話した。
二月七日 晴 温
- 朝飯をくつてストオヴにあたつてると渋川さんから見舞の手紙が来た。
[受信]渋川氏、又木君、北村智恵子、和歌山君 その他投書
明治四十四年当用日記補遺
○前年(四十三)中重要記事
- 九月──十五日より朝日紙上に「朝日歌壇」を設け、予選者たり。渋川柳次郎氏の好意に由る。月末本籍を東京本郷弓町二ノ十八に移す。
- 十二月──初旬『一握の砂』の製本成る。序は藪野椋十氏(渋川氏)表紙画は名取春僊君。一首を三行として短歌在来の格調を破れり。定価六十銭。半期末賞与五十四円を貰ふ。またこの月より俸給二十八円となれり。二葉亭全集第二巻また予の労によりて市に出でたり。
[住所人名録]
渋川柳次郎〇
(つづく)
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