新しき明日の来たるを信ずといふ 啄木
真教寺境内の啄木歌碑
「啄木 うたの風景 第29回」 岩手日報
第三部 苦闘の果て(1) 太栄館(東京都文京区)
- 上京後の啄木は、小説の評判が芳しくなく、焦りと挫折感を歌を詠むことで紛らわせた。与謝野寛・晶子夫妻が暮らす千駄ヶ谷の東京新詩社にも顔を出していた。
- 同じ頃に新詩社に出入りした沖縄出身の歌人山城正忠(1884〜1949)の名を刻んだ啄木の歌碑が那覇市の真教寺境内にある。啄木の日記に「山城君は肥つて達磨の様である」と登場する。山城は何度か啄木の下宿を訪ね、歌論を闘わせた。山城は帰郷後、歯科医の傍ら歌壇を先導し、沖縄に近代短歌の歌風を確立する。
- 啄木が亡くなった直後には追悼文を新聞に寄せた。「その蟠りのない素樸な口の利き振りが軈て田舎出の私をしてうちとけしむる媒介となつた」。
- 山城は渋民に最初の歌碑が作られることを知り、5円を贈った。沖縄にも碑を建てる決意をするが、果たせず。山城と親交のあった国吉真哲さんが、1977年に歌碑を建てた。その時に沖縄啄木同好会ができた。除幕式の司会をした沖縄大客員教授の真栄里泰山さんは「沖縄には啄木ファンが多い。東北と沖縄は差別されていたという思いが共通している。啄木のうっ屈した気持ちとみずみずしい感性が青年の心にすっと入った」と説明する。
(2012-10-24 岩手日報)
新しき明日の来たるを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど── 啄木
《碑陰》1977年4月建立 山城正忠 沖縄啄木同好会
<新しき明日の>の選歌は故山城氏。歌の文字は国吉氏が入手した東雲堂版啄木歌集からとり、「啄木」の文字は啄木自筆の拡大である。(『啄木文学碑紀行』浅沼秀政)
道の反対側から寺を見たところ。本堂左にある塀の近くに啄木歌碑が建っている。
写真手前の道路は上之蔵大通り。この道を左へ行くと那覇港に着く。右へ行くと波の上ビーチ、そしてこの後に訪れる波上宮の方向になる。波上宮には、山城正忠の歌碑がある。
(つづく)