《関連イベントに参加しての私的レポート》
「大正期の『悲しき玩具』受容を中心に」 木股知史
◎ 『悲しき玩具』は貧窮と病の歌集で生活派の源流だから、僕はちょっと緩んでいるなと思ってしまう。しかし、自分が一番好きな歌はというと、『悲しき玩具』の「考へれば/ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。/煙管をみがく。」の歌だ。平明に考えさせられる歌で、よくできていると思う。
○ 田中恭吉
僕は、啄木はもういいから他へいこうと田中恭吉の研究を始めた。田中恭吉は、明治25(1892)年生まれ。私輯『月映』を刊行した版画家。肺結核のため23歳で死去。調べていくと田中恭吉の短歌がいい。
田中恭吉日記、明治45年1月29日「先人のよき歌」として啄木の歌を二首引いている。
- 石川啄木の歌
頬につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず
かなしきは/かの白玉のごとくなる腕に残せし/キスの痕かな
1913年(大正2)に喀血したことが、彼を大きく変えた。
- 田中恭吉の歌
あかあかと 土にしみゆく
血のいろに
こころ吸はれて 立ちもありしか
『このあたりから血が出るやうです』
青白き
皮膚をおさへて 医士に言ひけり。
これは死に直面せざるを得ないという特異な運命も含め『悲しき玩具』だ、と思った。
○ 荒川義英
もう一人、荒川義英(1894年(明治27)生まれ、創作「一青年の手記」を『生活と芸術』に発表、持病の喘息のため25歳で死去)のことを教えてもらったので、調べてみた。
荒川義英「逝ける田中恭吉君の歌」(『處女』第一二年第三號 大正5年2月25日発行)
「故人石川啄木氏の『悲しき玩具』此の歌には瀕死の病人の溜息がよく現はれてゐた。なほ啄木氏には生きんとする力、もう一度盛りかへさうとする生のうめきが聽える様であつたが、田中君はさう云ふ所はない。」
短詠(本人は、短歌でもないから「短詠」とよんでいる)(『月映』第7集 1915年11月)
みつむれば、なみだに溶て、うらうらと 涯もわかぬ蒼空よ、
晴れてうれしもいやはてのわれのおくつき。
「皆磨きあげられた技巧の句である。その技巧の奥に潜む真実の影を見逃す事はできない。田中君が病苦のうちに是等を作るとき、恐らくは自からも誇張したと思ひ、筆をとる事その事に熱情が強迫してゐたと自から思ふかも知れぬ。」
◎ 田中恭吉は内的革命派であり、荒川義英は外的革命派といわれていたので、あまり交わらないのではないかと思っていた。しかしそれは間違いで、もっと混沌としていて、意外と交流がある。啄木の DNAはこうしてなんとなく受け継がれていくのだなと思う。
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<セミナー総括> 池田功 副会長
- 『一握の砂』は啄木学会でもテーマとして取り上げ論争してきた。『悲しき玩具』は、今までテーマにされなかった。今回はそういう意味で、大変意義のあることである。
- 大室さんは、論理的論証の視点から話された。推敲、中点、末尾十七首をとりあげ論理的に指摘した。これをぜひ本にしていただきたい。松平さんは、歌人としての鋭いことば、表記にこだわられての発表だった。啄木は「かなし」のひらがなが多い。「どの漢字にするかは読者に判断をゆだねる」というのが印象に残った。
- パネルディスカッションでは『悲しき玩具』の多面性について発表をいただいた。飯村さんは、現代語訳と原典の比較が面白い。学生に読む機会を与えるのが大切だという指摘は重要だ。崔さんは、漢字の読み方についてだったが、私の経験で留学生に日本語を教えていて、日本の今の高校生と留学生は漢字を読めないということで同じだ。高さんは三行書きの形式が、19歳のときの詩集『あこがれ』にあるという指摘に驚かされた。木股さんは、大正期の田中恭吉・荒川義英などに啄木のDNAが受け継がれているという指摘は面白い。
- 今日の『悲しき玩具』の多面性という難しい議論を河野さんがうまくまとめられていて、意義ある議論になった。
(国際啄木学会「2012年秋のセミナー」(終))