◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
東京都:文京区 喜之床跡と石川啄木終焉の地
(「啄木の息HP 2009年」からの再掲)
文京区の地図を広げる。右下(南東方向)に「本郷もかねやすまでは江戸の内」のかねやすがあり、その西に啄木一家が間借り生活をした「喜之床跡」、現在の「理容アライ」がある。地図中央の巨大緑地は小石川植物園。その南西に「石川啄木終焉の地」がある。
「喜之床跡」と「石川啄木終焉の地」の距離は、直線約2km。
○ 喜之床跡(現・理容 アライ)
本郷区本郷弓町二丁目十七番地(現・文京区本郷2-38-9)
【1909年(明治42)6月16日~ 1911年(明治44) 8月7日】
北海道を点々とした啄木は、1908年(明治41)5月上京した。
翌1909年(明治42)6月16日、妻・子・母を上野駅に迎え、本郷区弓町の床屋(喜之床)の二階六畳二間の間借り生活が始まった。
「通りの反対側から見る理容アライ」
「喜多床」の職人だった新井喜之助は、本郷弓町で「喜之床」を開業した。その後、改築した喜之床に、啄木一家が間借りする。
・「喜多床 百三十五年史」より
1871年(明治4)理髪店「喜多床」が開業した。創業の地は、現在の文京区本郷、加賀藩前田邸正門前。
創業者は中邨喜太郎(旧姓名 舩越喜景)で、屋号の「喜多床」は、前田家の殿様の命名である。
【お客様のプロフィール】
「石川啄木という人も覚えております。後にあれ程有名になるとは思いませんでした。何しろ美少年という感じだけの方でございましたから……」(二代目景輝談)(原文のまま)
「言語学者の金田一京助氏は、喜多床の顧客であった。
・・・金田一氏は、石川啄木が上京する際の世話役であった。喜多床二代目舩越景輝に天宗という天ぷらやで、啄木の下宿先を相談し、啄木は一時、喜多床の三階に下宿していた。その後、喜多床がのれんわけした本郷喜乃床に移っていった。」(原文のまま)
(「喜多床 百三十五年史」2005年発行)
「理容アライの入口」
左側の営業時間の下にある銀色のプレートを拡大したものが、下の写真である。
「文京区教育委員会の説明板」
「啄木ゆかりの喜之床(きのとこ)旧跡」
石川啄木は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5-15・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。
わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。
五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。
喜之床での生活は2年2か月、明治44年8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5-11-7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治45年(1912)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。
喜之床(新井理髪店)は明治41年(1908)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年5月(1978)啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。
かにかくに渋民村は恋しかり
おもいでの山
おもいでの川
(喜之床時代の作)
台所と便所は階下の家主と共同使用。啄木一家は二階六畳二間。通りに面して窓のある部屋、西向き、襖で仕切られて部屋があり、張り出した物干が付いていた。
東京で唯一の現存する石川啄木ゆかりの家だったが1980年(昭和55年)「明治村」に移設された。この床屋は明治後期から大正初期にかけての商家の形式である店の正面をガラス張りにしている。当時の新しいスタイルである。床屋は、ハイカラにはバーバーとも言われ、庶民の暮らしに欠かせない店屋であった。
「喜之床」は<登録有形文化財>
図面右側が二階平面図である。この六畳二間に妻節子、娘京子、母カツ、途中から父一禎(また途中で家出)、妹光子(看病等で滞在)そして啄木本人が生活した。
引越したその日から始まった妻節子と母カツとの確執、節子の家出、長男真一の誕生と死、文字通りの喜怒哀楽の日々が続いた。またこの部屋で、評論「食ふべき詩」・小説「我等の一団と彼」・評論「時代閉塞の現状」・歌集「一握の砂」・詩集「呼子と口笛」などが生み出された。
旧所在地 東京都文京区本郷
建設年 明治末年頃
解体年 昭和53年
移築年 昭和55年
建築面積 14.3坪
構造 木造二階建
寄贈者 新井光雄
左へ曲がってから1本目の小路を右へ。道の右側にある宇津木マンション(写真右側の建物)の角が「石川啄木終焉の地」である。
碑はどうしてしまったのか探してみると、文京区の観光案内ページにこのような説明があった。
「工事のため平成20年1月現在、記念碑を一時撤去しています」
(http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_shiseki_haka_takuboku.html)
全国から、もしかしたら海外からも訪れる「石川啄木終焉の地」の碑に、またぜひここで逢いたい。
「東京都指定旧跡の標示」
石川啄木は明治19年(1886)2月20日(または18年10月27日)、岩手県南岩手郡日戸村(現 盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。
盛岡中学校入学後、『明星』を愛読し、文学を志した。生活のため、故郷で小学校代用教員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが、作家を志望して上京、朝日新聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』・『悲しき玩具』、詩集『あこがれ』・『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。
啄木は、明治44年(1911)8月7日、本郷弓町の喜之床(現・文京区本郷2丁目38)の二階からこの地の借家(当時の小石川区久堅町74番46号)に移り、翌年病没するまで居住した。
この地に移った啄木は、既に病魔に侵されていた。明治45年4月13日午前9時30分、父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により26歳の若さで亡くなった。法名は啄木居士。
平成20年12月 設置
東京都教育委員会
「小石川図書館の入口」
終焉の地から100mほどのところに文京区立小石川図書館がある。ここは啄木関係の書籍も豊富で、北海道時代の『紅苜蓿』など貴重なものが、手に取れる開架書庫に並んでいる。
「石川啄木 - 文京区における足跡を訪ねて」というリーフレットがあった。小日向台町、菊坂町、森川町、弓町、久堅町等、啄木ゆかりの地の説明と「啄木のあゆみ」として年譜が載っていた。
・久堅町(終焉の地)(リーフレットより)
明治44年8月、肺結核のため、喜之床を追われ、小石川区久堅町74番地46号(小石川5-11-7)の借家に移る。当日の日記に「門構え、玄関の三畳、八畳、六畳外に勝手あり、付近に木多し、夜は立木の上にまともに月出でたり」とある。
啄木は、この年、2月、慢性腹膜炎のため、入院、手術をうけ、3月に退院、自宅療養に入っていた。しかし、病状は悪化、肺結核に移行し、翌45年4月13日、永眠した。(昭和27年、都旧跡に指定。昭和44年、「終焉の地」碑建立)
団平坂
(丹平坂-だんぺいざか・袖引坂-そでひきざか)
「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
椽先にまくら出させて、
ひさしぶりに、
ゆふべの空にしたしめるかな
石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
文京区教育委員会 平成5年3月
* +α
茗荷谷駅の南側にある林泉寺。中央の荒縄でグルグル巻きにされているのが地蔵尊である。これにまつわる大岡政談の話も面白い。
文京区には、明治35年上京したときの下宿先の小石川小日向台町、明治37年処女詩集「あこがれ」刊行のために下宿した向ヶ岡弥生町、明治41年上京し下宿した菊坂町や森川町など、ゆかりの地はまだまだある。
石川啄木の跡を訪ねてまた文京を楽しみたい。
(2009年-夏)