◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
(「啄木の息HP 2009年」からの再掲)
北海道 ─ 岩見沢市の北村牧場、美唄駅前の歌碑、砂川市滝川公園、旭川市
1907年(明治40)、「石をもて追はるるごとく…」渋民を出た啄木は、北海道での新生活を決意し、函館へ行く。函館区立弥生尋常小学校代用教員在職のまま函館日日新聞社遊軍記者となった直後、函館大火に遇う。その後、札幌、小樽と転々とする。
『釧路新聞』社勤務が決定し、1908年(明治41)1月19日、小樽駅を出発(午前11時40分小樽駅発)した。途中、岩見沢駅で下車(午後3時25分頃岩見沢駅着)、当時岩見沢駅長の山本千三郎(啄木の姉トラの夫)宅に一泊する。翌日(20日)岩見沢駅発(午前10時半)旭川へと向かう。
*101年後の2009年、啄木の後を追って岩見沢-北村牧場-美唄-砂川-旭川を訪ねた。
1 岩見沢駅と啄木
○ 2009年3月完成の岩見沢駅舎
「岩見沢駅の北側通り」
北海道らしい真っ直ぐな道が続く
雪中行
……小樽より釧路まで……
石川啄木
(第一信) 岩見沢にて
一月十九日。雪。
(略)
雪は何時しか晴れて居る。空一面に渋い顔を披いた灰色の雪が大地を圧して、右も左も、見ゆる限りは雪又雪。所々に枯木や茅舎を点綴した冬の大原野は、漫(そぞ)ろにまだ見ぬ露西亜の曠野を偲ばしめる。鉄の如き人生の苦痛と、熱火の如き革命の思想とを育て上げた、荒涼とも壮大とも云ひ様なき北欧の大自然は、幻の如く自分の目に浮んだ。不図したら、猟銃を肩にしたツルゲネーフが、人の好ささうな、髯の長い、巨人の如く背の高い露西亜の百姓と共に、此処いらを彷徨(うろつ)いて居はせぬかといふ様な心地がする。
(略)
程なく岩見沢に下車して、車夫を呼ぶと橇牽(そりひき)が来た。今朝家を出た時の如く、不景気な橇に賃して四時頃此姉が家に着いた。途中目についたのは、雪の深いことと地に達する氷柱(つらら)のあつた事、凍れるビールを暖炉(ストーブ)に解かし、鶏を割いての楽しき晩餐は、全く自分の心を温かにした。剰(あまつ)さへ湯加減程よき一風呂に我が身体も亦車上の労れを忘れた。自分は今、眠りたいと云ふ外に何の希望も持つて居ない。眠りたい、眠りたい……実際モウ眠くなつたから、此第一信の筆を擱く事にする。(午後九時半)
[「釧路新聞」明治四十一年一月二十四日]
「岩見沢駅複合駅舎」
「赤レンガには募金した人の名」
○ 義兄は岩見沢駅長・山本千三郎
北海道旅客鉄道株式会社(岩見沢レールセンター)を
岩見沢駅側より見る。
・「1906年(明治39)岩見沢に於ける炭礦鉄道会社工場 」の写真をネット上で見つけた。明治大正期北海道写真目録(明治大正期の北海道・目録編)で、北大附属図書館が管理している。その写真と現在の工場を比較してみると同じ建物が残っていると思われる。
・啄木が岩見沢に着いたのは1908年(明治41)だから、雪の中にこの建物を見たかもしれない。
・外壁の高いところに組み込まれた社紋・五稜星形は風雨にさらされ風格がある。北海道唯一のレールセンターとして現在も製造、技術開発が行われていて技術史の面からも貴重な文化財だそうだ。
凍れるビールを暖炉に解かし、鶏を割いての楽しき晩餐は、全く自分の心を温かにした。剰さへ湯加減程よき一風呂に我が身体も亦車上の労れを忘れた。(雪中行より)
・啄木21歳、トラ29歳、千三郎37歳。よき姉とよき義兄をもった啄木が、ビールを飲みお腹いっぱい食べ風呂に入って暖まりくつろいでいる様子が伝わってくる。
(第二信) 旭川にて
一月二十日。曇。
午前十時半岩見沢発二番の旭川行に乗つた。(雪中行より)
2 北村牧場の啄木歌碑
○「鹿子百合の碑」
「道道6号線の歌碑案内板」
「表示の左後ろに啄木歌碑」
歌碑の設置場所はゆったりとした広さ
がある。北村牧場の厚意の深さを思う。
「動画:鳥の声や風の音も入っています」
碑文
薄幸の歌人石川啄木があこがれた橘智惠(戸籍はチヱ)は、北海道庁立札幌高等女学校卒業後補習科に進み一九〇六(明治三十九)年三月函館区立弥生尋常小学校訓導となった。
翌四十年六月代用教員として採用された石川啄木は、智恵を「真直ぐ立てる鹿子百合」にたとえ、美しい同僚の存在に強く心ひかれるものがあった。不幸にも同年八月の函館大火によって職を失った啄木は、智恵の下宿先を訪れて処女詩集『あこがれ』を贈り、札幌へと旅立って行った。その後病を得て職を辞し、療養に専念して全快した智恵は、札幌農学校で兄の学友であった若き牧場主北村謹のもとへ嫁ぐことになり、明治四十三年五月石狩川を汽船で遡って、空知郡北村の北村農牧場(後の北村牧場)に来たのであった。
啄木は明治四十三年末に出版した処女歌集『一握の砂』を智恵に贈ったが、この歌集に収められた「忘れがたき人々二」二十二首は、智恵を歌ったものである。
のちに「空知ホルスタインの父」とたたえられる夫と共に、多忙な毎日をおくっていた智恵は、啄木が東京で肺を患い、栄養もままならない貧困の生活をおくっていることを風の便りに聞き、当時高価で入手難だったバターを、夫の同意のもとに、歌集へのお礼の気持ちも込めて、かつての同僚に贈った。
一九二二(大正十一)年十月一日、智恵は産褥熱のため、愛する夫と六人の子を残して、空知郡岩見沢町の岩見沢病院でこの世を去った。満三十三才であった。
私たちは、この美しいエピソードを永く後世に伝えるため、この碑を建設する。
一九九九年十月 北村歌碑建設期成会
「鹿子百合の碑」
「横から見ると碑が一つ一つ離れている」
○ ローマ字日記の「 Tie-ko san ! 」
MEIDI 42 NEN.
1909.
APRIL.
9 TH, FRIDAY.
Ototoi kita toki wa nan to mo omowanakatta Tie-ko san no Hagaki wo mite iru to, naze ka tamaranai hodo koisiku natte kita. ' Hito no Tuma ni naranu mae ni, tatta iti-do de ii kara aitai ! ' So omotta.
Tie-ko san ! nan to ii Namae daro! Ano sitoyaka na, sosite karoyaka na, ika ni mo wakai Onna rasii Aruki-buri ! Sawayaka na Koe ! Hutari no Hanasi wo sita no wa tatta ni-do da.
明治42年4月9日
おとといきたときはなんとも思わなかった、智恵子さんのハガキを見ていると、なぜかたまらないほど恋しくなってきた。‘人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから 会いたい!’ そう思った。
智恵子さん! なんといい名前だろう!
あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声!
ふたりの話をしたのは、たった二度だ。
(「ローマ字日記」 石川啄木)
○ 啄木と智恵子
・橘智恵子は札幌のリンゴ園の長女として生まれた。函館区立彌生尋常高等小学校の訓導として赴任したときに、代用教員の啄木と出合った。夏休みとか啄木の欠勤とか函館大火とかがあり二人で話したと言えるのは、啄木日記によると退職届を出した日とその翌日の二回だけだった。
九月十一日
午前仮事む所に大竹校長を訪ひて退職願を出しぬ。座に橘女史あり、札幌の話をきけり。
九月十二日
空はれて高く、秋の心何となく樹々の間に流れたり。この日となりて、予は漸やく函館と別るるといふ一種云ひ難き感じしたり。
朝のうちに学校の方の予が責任ある仕事を済し、ひとり杖を曳いて、いひ難き名残を函館に惜しみぬ。橘女史を訪ふて相語る二時間余。
(丁未日誌 明治40年)
・この二回のみが啄木と智恵子の‘ふれあい’だった。
橘智恵子
啄木の片恋であるとか、架空の恋だといった記述を多く目にするが、彼女の隠された部分を見れば、啄木への清純な思慕があったように思われる。啄木へ送った手紙には、「お嫁には来ましたけれど心はもとのまんまの智恵子ですから」と書かれていた。新婚の女性が関心のない男にこのような事を書く必要があるだろうか。啄木との精神的な愛をつなぎ止めておきたいという彼女の心情を読みとることができる 。
(『石川啄木事典』おうふう 第二部 項目篇 橘智恵子)
【近代女性のイメージ】
橘智恵子
「美しくほのかな恋」
橘智恵子は当時にあってすぐれて近代的な女性でありました。
二人の間には、啄木の「片恋(かたおもい)」とか啄木の「架空の恋」といってかたづけることのできない、美しい慕情が交流していました。
ひとつ。二人の相手に対していだく慕情には性的なものが昇華されています。これは近代に特徴的な恋の一つの形・・・。
ふたつ。女性の勤めうる数少ない近代的職場(小学校)で芽生えた、そこで働く女性への恋であったこと。
みっつ。妻子ありの男性が職場の同僚を好きになるというのは、近代的というか現代的というか、これまた非常に新しい形でした。しかも女性の側からもほのかに慕情を寄せていたのですから……。
よっつ。啄木が函館を去ってのち二人の間を媒介していたのは、近代的郵便制度でした。「言ひやらば」は「手紙で言ってやると」の意味です。
死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
(『啄木短歌に時代を読む』近藤典彦 吉川弘文館)
「手前右が碑。奥に並ぶのが
北村牧場の建物だと思われる」
○ 牧場主の妻・智恵子
・若くして北村牧場を継いだ北村勤は、1910年(明治43)5月、20歳(翌月21歳になる)の智恵子と結婚した。それから12年、33歳で亡くなるまでの若い牧場主のお嫁さんの毎日はどんなだったのだろう。
・大都会札幌で育った智恵子は、当時としては珍しい高学歴の教員経験者だった。札幌-岩見沢間は30数km、今なら道央道ですぐに行ける距離だ。岩見沢は豪雪地帯としても有名だ。最近48年間(2009年の資料)の平均降雪量でも札幌の1.5倍ある。石狩川を汽船で遡ってお嫁に来た智恵子だったが、12年の間に里帰りなどできたのだろうか。
・12年間に6人の子を産み育てた、それだけでも大仕事なのに、牧場主の妻としての仕事にどのように関わっていたかとても興味が持てる。雪国は冬に訪れなければ厳しさも楽しさもわからない。時代を100年遡ることもできない。しかし、岩見沢に来て遙か広がる土地と美しい緑に囲まれてみると、智恵子のご親族の方々がいろいろな思いを持ちながら「鹿子百合の碑」を建ててくださった心の広さに触れた気がする。
○ 啄木が智恵子を詠める歌 22首
『一握の砂』第四章
「忘れがたき人人」
二
いつなりけむ
夢にふと聴きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり
*プロローグ、橘智恵子の声の訪れ。この節の歌はすべて、智恵子に捧げられている。
頬(ほ)の寒き
流離(りうり)の旅の人として
路(みち)問(と)ふほどのこと言ひしのみ
*以下八首は函館時代の智恵子を回想する歌。
さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと
ひややかに清き大理石(なめいし)に
春の日の静かに照るは
かかる思ひならむ
世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳(ひとみ)の
今も目にあり
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
真白(ましろ)なるラムプの笠の
瑕(きず)のごと
流離の記憶消しがたきかな
函館のかの焼跡(やけあと)を去りし夜(よ)の
こころ残りを
今も残しつ
人がいふ
鬢(びん)のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし
馬鈴薯(ばれいしよ)の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ
*以下十二首は札幌に住む智恵子を東京にいて想う歌。
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
忘れをれば
ひょっとした事が思ひ出の種にまたなる
忘れかねつも
病むと聞き
癒(い)えしと聞きて
四百里(しひやくり)のこなたに我はうつつなかりし
君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
*「街」は東京の街。智恵子が東京の街にいるはずはないのに、似た姿を見てさえ、啄木は胸を躍らせる。
かの声を最一度(もいちど)聴かば
すっきりと
胸や霽(は)れむと今朝も思へる
いそがしき生活(くらし)のなかの
時折のこの物おもひ
誰(たれ)のためぞも
しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ
死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
時として
君を思へば
安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
わかれ来て年を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな
石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
長き文(ふみ)
三年(みとせ)のうちに三度(みたび)来(き)ぬ
我の書きしは四度(よたび)にかあらむ
*エピローグ。夢の中の声の訪れよりもたしかな手紙の訪れが三度あったことを確認してこの節を結ぶ。
3 美唄駅前の啄木歌碑
・美唄駅は2002年に移転新築された近代的な建物。東西連絡通路にある、はめ込みガラスのデザインが美しい。
「駅前広場の啄木歌碑」
駅2階から広場を見下ろす
「石川啄木の歌碑」
「3番ホーム 啄木の歌額」
「石狩の美國といへる」とあるが
石狩には「美國」という駅はない
4 砂川市・滝川公園の啄木歌碑
「滝川公園 園内案内図」
・「空知」はアイヌ語「ソーラップチ」が語源。ソーは滝、ラップチは下るの意で「ソラチ」と音訳した。滝を下る川という意味だから「滝川」というのは意訳になる。
・「滝川公園」は、砂川市と滝川市の境にあり、住所は砂川市空知太だが滝川市が管理している。公園の上を横切って滝川バイパスが通っている。公園入口がとても分かりにくい。
・桜の名所で、キャンプもできる。
「上の写真の啄木歌碑部分」
「国木田独歩の碑」
余は遂に再び北海道の地を踏まないで今日に到つた。た
とひ一家の事情は余の開墾の目的を中止せしめたにせよ
、余は今も尚ほ空知川の沿岸を思ふと、あの冷厳なる自
然が余を引つけるやうに感ずるのである。何故だらう。
(『空知川の岸辺』明治三十五年十一月--十二月)
「啄木の碑」
左側にあるのは太鼓橋
・1950年(昭和25)に滝川町開町60周年を記念して滝川歌人会により建立された。
一月二十一日
「午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川発に乗つた。程なくして枯林の中から旭日が赤々と上つた。空知川の岸に添うて上る。此辺が所謂最も北海道的な所だ。
石狩十勝の国境を越えて、五分間を要する大トンネルを通ると、右の方一望幾百里、真に譬ふるに辞なき大景である。……」
(石川啄木 明治四十一年日誌 『石川啄木全集』筑摩書房 1983)
明治四十一年、小樽日報を退社して釧路に向かう途中の啄木が雪の中を進む列車の窓から眺めた光景を記した日記の一節である。この時の印象をのちに<空知川雪に埋れて>と歌っているが、啄木はこの地を通過しただけで足跡をしるしてはいない。
(『啄木文学碑紀行』浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996)
「滝川町開町六拾周年記念 建立協賛御芳名」
「黄の花畑」
5 旭川
日の暮れぬ間にと、町見物に出かける。流石は寒さに名高き旭川だけあつて、雪も深い。馬鉄の線路は、道路面から二尺も低くなつて居る。支庁前にさる家を訪ねて留守に逢ひ、北海旭新聞社に立寄つた。旭川は札幌の小さいのだと能(よ)く人は云ふ。成程街の様子が甚だよく札幌に似て居て、曲つた道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。
(略)
湯に這入つた。薄暗くて立ち罩(こ)めた湯気の濛々(もうもう)たる中で、「旭川は数年にして屹度札幌を凌駕(りようが)する様になるよ」と気焔を吐いて居る男がある。「戸数は幾何あるですか」と訊くと、「左様六千余に上つてるでせう」と其人が答へた。甚*(注)(どんな)人であつたかは、見る事が出来ずに了つた。
夜に入つて東泉先生も札幌から来られた。広い十畳間に黄銅の火鉢が大きい。旭川はアイヌ語でチウベツ(忠別)と云ふさうな、チウは日の出、ベツは川、日の出る方から来る川と云ふ意味なさうで、旭川はその意訳だと先生が話された。
(略)
(九時半宮越屋楼上にて)
(*注 甚のあとに一文字入りますが漢字配当外のため表記できません)
「緑橋通 雪国の信号機は縦型」
宮崎大四郎様
「札幌に似て一直線の道」
「旭川は札幌の小さいのだと能く人は云ふ。成程街の様子が甚だよく札幌に似て居て、曲つた道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。」(雪中行より)
「旭川で見つけた不思議な箱」
“一握の撒砂”って! ナニ?
下の絵は「啄木鳥」?
「一握の撒砂とは」
“あなたの思いやりを多くの人へ”
きれいな空気をもとめてスパイクタイヤをやめたら路面がツルツルになりました。ここにある砂をあなた自身のため、そしてここを歩く多くの人たちのためにまきましょう。そんな思いやりとふれあいの場になることを願ってこの砂を「一握の撒砂」と名付けました。
* 釧路へ、そして東京へ
21歳(1カ月後に22歳)の啄木はこうして旭川を発ち釧路へ向かった。76日間の釧路新聞記者生活のあと「文学的運命を極度まで試験する決心」で横浜行きの船に乗った。
北海道へも、ふるさと渋民へも二度と帰ることのない旅だった。
(2009-夏)