〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「初めて並ぶ “郁雨と啄木の歌碑” を訪ねて」新潟県新発田市 <5>

郁雨の古里に並ぶ 郁雨と啄木の歌碑 <5>

裏側から見る歌碑

園の許可を得て庭に入る。

学校跡地のためか園庭は広い。

写真の左端に二宮尊徳像。郁雨歌碑は樹木の中。啄木歌碑は中央よりやや右の木々の間から頭を出している。

 

啄木のあしあと【函館篇】

 函館の生活
         桜井健治

 

  函館の青柳町こそかなしけれ

  友の恋歌

  矢車の花

 

・このロマンチックな歌は、函館と啄木を語る上で欠くことのできぬ代表歌であり、青柳町45番地、苜蓿社が啄木来函後の仮宿となったところである。

 

・啄木の住んだ所からほど近くに、市民の憩いの場として豊かな緑に包まれた函館公園がある。公園内には啄木文献資料の宝庫市立函館図書館と、全国に点在する数多い啄木歌碑の中でも、すばらしいできばえであると本山桂川氏がその著『写真文学碑』の中で絶賛した「函館の青柳町こそかなしけれ──」の歌碑が建てられている。裏面には宮崎郁雨によって、

石川啄木が首蓿社に迎えられて青柳町に住んだのは、明治40年5月から9月に至る短い期間であったが、此の間の彼の生活は多数の盟友の温情に浸り、且つ久しく離散して居た家族を取り纏める事を得て、明るく楽しいものであった。今回当時を思慕する彼の歌碑が由縁深き此の地に建立さるるに際し、今更ながら在りし日の故友の俤が偲ばれる。

   昭和28年4月13日 郁雨宮崎大四郎

と書かれている。函館での啄木の生活は、宮崎郁雨のこの一文によって端的にそして的確に言い尽くされているように思われる。

 

(「啄木研究」 1976年 二号  洋々社)

 

 

 

 

左が郁雨  右が啄木

碑石は「安田石」といって、新潟県北蒲原郡安田町で産出される花崗岩。地名をとって「安田石」と呼ばれる。

新潟県以外ではあまり見られないとのこと。

どちらの後ろ姿も美しい。

 

さびたの花はいつ咲く

      ──啄木雑記帳より──
               宮崎郁雨

 

・「啄木が苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)を頼って函館へ来たのは、明治40年の春、山麓の其処此処にさびたの花が咲き初めた5月の5日であった。夙に世に天才の名を謳われた未見の詩人に見参しようと、その夜青柳町露探小路の苜蓿社にはかなり多数の同人達が集まった。折柄机の上の一輪ざしに挿した花を見て居た啄木が『その白い花は紫陽花に似てるけれども違う様ですね。何の花ですか』と聞いた。『それはさびたのパイプの花です』と蕗堂が答えると途端にどっと皆が笑った。」
 
・それを書いた翌年の7月、(中略)ふっとある事に思い当って、私の心は俄に騒ぎ始めたのであった。

 

・5月5日という函館の早春に、さびたが果して開花して居たかどうかという問題が、私の良心をゆさぶるのであった。

・本稿が読者の目に触れる頃は、恰もさびたの花期を確めるに好個の季節と思われるので、或は曽ての啄木達の散策の跡を尋ね、碧血碑畔に漢詩の小碑を訪らい、序を以てさびたの花を其処此処に探って、私の心の混迷を解いてくれる有志者があるかも知れないと、楽しい嘱望を胸に秘めながら、私は遙に遠い函館の空を恋い偲んで居る。

 

 (昭和34.3.30、東京下北沢の寓居にて)(「海峡」昭和34年5月)

(「國文學學燈社 昭和50年10月号(1975年))

 

 

(つづく)

 

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