〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「紅苜蓿  <7>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

紅苜蓿  <7>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

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  • 啄木は創刊号の発行に際し、蕗堂に請われるまま、長詩「公孫樹」と「かりがね」「雪の夜」の三篇の作品を書き送り、雑誌を飾った。これは、蕗堂が『明星』に投稿していた関係で啄木に依頼したもので、啄木と函館を結ぶ発端はここにある。
  • 函館入りした啄木は、早速、編集発行一切を流人から任され、第六号から担当し、誌名を『紅苜蓿(れつどくろばあ)』と改称して、第七号には小説「漂泊」を啄木名で、短歌「曽保土」を西方左近の名で発表するなど、原稿難にあっての啄木の活躍ぶりがうかがわれる。
  • 「雑誌紅苜蓿は四十頁の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌なり」(明治四十年九月六日日記)と記した啄木であるが、八月二十五日に発生した大火で第八号の原稿全てを焼失し、『紅苜蓿』は第七号で終刊となった。流人と交代した啄木は、雑誌発行に情熱を燃やし、才筆をふるったが、結果的には二冊の編集発行を担当するにとどまった。だが、一地方のこの文芸誌は、啄木との関係によって永く文芸誌上に名をとどめることになったのである。(「啄木と函館」解説 桜井健治)

(阿部たつを著 桜井健治編 『啄木と函館』 幻洋社 1992年)

 


 

  • 啄木の函館時代は、明治四十年五月五日より九月十三日までの四ヶ月たらずであるが、彼の北海道時代の中でもとりわけ重要な時期である。まず、苜蓿社を通して生涯の友人を数多く得たこと、また、彼等を通じて再び文学熱が高まってきたことである。
  • 次に、函館時代における啄木の文学活動について、見ていきたい。まず、五月十一日に、啄木は二年振りで短歌を作った。それを、函館へ来る前に作った最後の歌と比較してみると、啄木の短歌の変化が著しいことに気付くであろう。

   夏の月は窓をすべりて盗むごと人の寝顔に口づけにける

   この泉汲めば緑の古瓶の我にしよろし百合咲く苑は

   わが愁は春くる岡の花草の雪にか似たり雪消すらしも

    (『明星』M38・7月号)

 

   汗おぼゆ。津軽の瀬戸の速潮を山に放たば青嵐せむ。

   朝ゆけば砂山かげの緑叢の中に君居ぬ白き衣して

   夕浪は寄せぬ人なき砂浜の海草にしも心埋もる日

    (啄木日記 M40・5・11)

 

  • 『明星』掲載歌の方は、ひたすら恋の為に奔走する情熱的な歌い方で、刺激的な原色の色合いが強いといえよう。それに対して、啄木日記掲載歌の方は客観的な歌い方であり、しっとりとした落ち着いた感じを与える歌となっている。
  • 現在函館図書館に所蔵されている苜蓿社短歌競詠草稿には、啄木の短歌が七首載っている。
  • この歌は、自分の生き方を真正面に捉えたような激しさがあり、やはり、明治三十八年七月号の『明星』掲載歌と比べると、より現実を見据えたものといえよう。

(目良 卓 『啄木と苜蓿社の同人達』 武蔵野書房 1995年)

 

(つづく)