評論
与謝野鉄幹と啄木の明治40年代 【21】
与謝野夫妻と啄木との初対面、その前後
明治三十五年の啄木日記『秋韷笛語』は、三か月にも満たぬ短期間の記述だが、満十六歳の啄木の心情を赤裸々に描くだけでなく、与謝野夫妻の風貌や生活、「明星」関係者の顔ぶれといった情報を伝える資料でもある。鉄幹について啄木は次のように記し好感を抱く。
- 面晤することわづか二回、吾は未だその人物を批評すべくもあらずと雖も、世人の云ふことの氏にとりて最も当れるは、機敏にして強き活動力を有せることなるべし。
盛岡の友人・小林茂雄への書簡
啄木が「明星」にどの程度の認識があったのかを示す書簡がある。三十五年七月二十五日に渋民村から小林茂雄宛てで次のように書く。
- 明星を見よとふとはさて気の多い。いや血の多いのだらう。可敬。自分が今の和歌についての評見は別に新しい者でもない。現在では兎に角根岸連は淡白な抒景に妙をえて居るーー、新詩社連は濃艶な抒情にうまい。さて其両派の体度は如何にと云ふに根岸は保守で鉄組は進歩だ。
啄木が「明星」を知ったのは、明治三十三年に中学校三年に進級したこの年、先輩・金田一京助との交流が始まったことによる。彼らは三十四年三月以降の『文壇照魔鏡』をめぐる劇的な展開を東京から遠く離れた岩手県盛岡でおそらく固唾をのんで見守っていた。大阪堺の鳳しよう(のちの晶子)が圧倒的な歌才を発揮して瞬く間に「明星」を彩り、鉄幹と山川登美子の三人が京都永観堂で別れを惜しみ、やがて晶子が恋の勝利者として鉄幹の住む東京渋谷へ押しかけたドラマティックな成り行きも「明星」を通して知っていただろう。啄木のみならず思春期の若者が「明星」に胸ときめかせ歌集『みだれ髪』に熱狂したのは理由のないことではない。(後略)
短歌同人誌『プチ★モンド』No.108春号
(2020年3月1日発行、発行人・編集人 松平盟子)