◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <2>
四万十市の地図(「幸徳秋水」四万十市教育委員会 平成29年発行)
「幸徳秋水資料室」のある四万十市立図書館は、地図の右下辺りになる。
この図書館は、2010年、四万十市市役所内2階にオープンした。
そこに「幸徳秋水資料室」がある。
郷土資料室
郷土展示コーナーには、幸徳秋水や大逆事件などの資料が並んでいる。
関連資料の棚
「現代に生きる 幸徳秋水」
平出修は、若き俊秀の弁護士であり、この事件を担当していた。啄木とは、詩歌集「スバル」を通しての友人であった。
大逆事件の裁判は、明治43年11月20日前後から始まり、翌44年1月18日に終結、幸徳をはじめとする被告に極刑が言い渡された。
平出修は、公判の終わりに近い1月3日に、幸徳が獄中から送った陳弁書(申し開き書)を見せ、平出自身の、この事件に対する考えを述べている。
啄木は、夜を徹してこの陳弁書を写し取る。
幸徳らの死刑執行が、判決後6日後という異常な早さであったことを併せ考えるとき、この「大逆事件」の真相は、明らかなものとして迫ってこよう。
啄木は、「大逆事件」に衝撃を受け、明治43年8月には、評論「時代閉塞の現状」を執筆、44年以降は、1月、平出宅で7000枚に及ぶ特別裁判の一件書類を読む、2月、土岐哀果からクロポトキンの自伝を借覧、4月、平民新聞所載のトルストイの「日露戦争論」を写す、また5月には「フ = ナロードシリーズ」を執筆、「大逆事件」の真相を後世に伝えんとしている。
惜しくも1912(明治45)年4月13日、極貧のなかで死去。享年27歳。
(「現代に生きる 幸徳秋水」幸徳秋水を顕彰する会発行 2007年発行)
(つづく)