〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <3>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


3 小樽日報社跡

小樽日報は、創刊1907年(明治40年)10月15日。社長は、初代釧路町長の白石義郎(東泉)だった。できたばかりの小さな新聞社に啄木は約80日間勤務した。



 
小樽日報社跡(本間内科)の案内板

 「石川啄木と小樽日報社跡」

 かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 聲の荒さよ

小樽日報は、道会議員の白石義郎氏が明治40年10月創立し、石川啄木、野口雨情らが発刊に加わった。
小国露堂の紹介で、札幌の北門新聞から明治40年9月27日小樽日報社に入社するため来樽した啄木は雨情とともに三面記事を担当した。当時小樽に姉が嫁いでいたこともあって函館から家族を呼び寄せ、新しい土地での仕事に情熱を燃やしたが、主筆の岩泉江東とことごとく意見が対立し、わずか十数日で小樽を去った雨情のあとを追うように、同年12月12日退社し明治41年1月19日小樽を去った。
               小樽市

啄木の仕事ぶり

「啄木と私とは編輯室の一番奥まった処に、壁を背にして卓子を並べ、殆ど競争の姿で筆を執ってゐたが、仕事にかゝった後の彼の態度は実に真剣で、煙草も吸わず、口も利かずにセッセと原稿紙に向かって毛筆を走らせる丈であつた。何か快心の記事を書くときも愉快そうにニコニコして、自分で原稿を工場に下げに行つた。工場では啄木の原稿は大歓迎で非常な人気があつた。それは第一に字のキレイなこと、次は文章の巧みなこと、それに消字が少なくて読みよいことゝ云ふので、文撰長などスッカリ此点で啄木崇拝家になってゐた」(「石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」>)

 

明治四十一年日誌
  明治41年4月18日  啄木日記

「小樽日報今日より休刊、実は廃刊。不思議なるかな、自分は日報の生れる時小樽に来て、今はしなくも其死ぬのをも見た」


横浜の山下公園にある「赤い靴の女の子の像」(2004年)


野口雨情と小国露堂
啄木は函館大火から逃れ、雑誌「明星」の同人同士という僅かな縁で野口雨情を訪ねた。雨情は記者仲間の小国露堂に啄木を紹介した。啄木は、露堂の斡旋で北門新報社に入社した。それから間もなく、小樽日報が旗あげし、鈴木志郎(童謡「赤い靴」の女の子の義理の父)、野口雨情、石川啄木の三人は一緒に入社した。
主筆岩泉江東の排斥運動で雨情は追われ、啄木は懐柔策もあり三面主任となる。
そのような関係の啄木と雨情だが、同時に同じ職場にいたという意味は深いと思われる。
それから10数年して、有名な歌「赤い靴」が発表された。生後7日で娘を失った雨情自身の悲しみと、娘を手放した岩崎かよ(鈴木志郎の妻)の事情がこめられている。
「赤い靴と啄木」啄木の息-啄木文学散歩)



現在、小樽日報は啄木が「小樽のかたみ」としてスクラップしたものはあるが、それ以外は明治40年10月24日発行『小樽日報』第3号しか残っていない。



(つづく)