〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い息づかいに触れてみたい

 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <5>

啄木文学散歩・もくじ


5 立待岬の歌碑「与謝野鉄幹・晶子」と「宮崎郁雨」


立待岬の端にある与謝野寛・晶子の歌碑(中央の白い四角が歌碑説明板)」



石川啄木有島武郎 〜遙かなる夢の残像〜」北村巌

  • 明治35年10月1日、啄木の短歌一首が『明星』に石川白蘋の筆名で掲載される。有頂天となった啄木は盛岡中学校をあっさりと中退。文学を志し、10月30日にはもう故郷を立ち東京へと向かう。11月9日、啄木はさしたるつてのないまま新詩社の会合に出席。この時初めて与謝野鉄幹と接し、翌日にはもう与謝野宅を訪問している。その行動力には驚くばかりである。
  • 与謝野鉄幹の知遇を得たことは、以後の啄木に大きく道を開いたからである。この縁で明治36年1月には新詩社同人となり、12月1日発行の『明星』に初めて「啄木」の筆名で長詩「愁調」五篇が掲載される。啄木の実質的デビューであり、これによりその名が世に知られることとなる。
  • 啄木は与謝野夫婦との出会いにより、文学の人脈を広げていったと言えよう。

(「石川啄木有島武郎 〜遙かなる夢の残像〜」北村巌  函館市文学館「生誕120年記念 石川啄木」 2006年発行)









「歌碑説明板」

 与謝野寛・晶子の歌碑

昭和31(1956)年、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年、同会は棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を建立した。
晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。
また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。
                         函館市





   濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立
   待岬の岩かげの土       寛


   啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじ
   はこだてのこと         晶子

撰文

   此の碑に刻んだ歌は、与謝野寛、晶子
   夫妻が昭和六年六月六日函館に来遊し
   た時の詠草の中から選んだもので、歌
   の中の人間は、郁雨宮崎大四郎、啄木
   石川一、図書裡岡田健蔵である。
       昭和三十二年八月十五日建立
             計画 図書裡会
             賛助 棒二森屋

「啄木と鉄幹」新間進一

鉄幹の啄木を偲ぶ短歌は『与謝野寛短歌全集』の中に折折にあるが、昭和六年五月、北海道を周遊した時の作から若干を示したい。往路函館図書館を訪ね、帰路には立待岬の啄木の墓に詣でている。宮崎郁雨氏や、岡田健蔵館長が案内をした。

   啄木よ汝も生きてありし日は人思ひけり石くれのごと
   啄木は貧しきなかに書きしかどゆたかなるかな思ひつること
   啄木のおくつきの石ありし日に彼れの肩をば撫でしごと撫づ
   啄木の墓に涙す彼れ知らば老いて愚かになりぬと思はん

啄木よりも十三歳も年上の鉄幹は、この年五十九歳に達しており、漸く老いを感ずる年になっていたのである。
「啄木と鉄幹」新間進一 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))


「啄木の書簡・日記からみた鉄幹・晶子」逸見久美

明治45年4月13日の彼の死は各新聞に報道された。晶子は啄木を悼む歌を掲載した。

 ・東京朝日新聞 明治45年4月17日
   人来り啄木死ぬと語りけり遠方びとはまだ知らざらむ

この歌にあるように、与謝野寛は前年十一月渡欧しており、晶子もまた啄木の死後一月ほどで渡欧しなければならなかった。だから四月十六日の『読売新聞』の「故啄木氏葬儀」の知らせには会葬者九名の中に晶子の名は記されていない。恐らく渡欧の準備に公私ともに忙殺されていたからであろう。

 ・東京日日新聞 明治45年4月18日
   しら玉は黒き袋にかくれたり吾が啄木はあらずこの世に

晶子にとっては「吾が啄木」であった。弟のように面倒を見、共に文学を語った文学の語り相手であった。

(「啄木の書簡・日記からみた鉄幹・晶子」逸見久美 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))








「宮崎家一族之奥城と宮崎郁雨歌碑」
このすぐ左側に石川啄木一族の墓がある。

説明板
宮崎郁雨の歌碑
宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年(1885)年に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となった。翌40年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって暖かい援助を続け、42年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。
郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43(1968)年に函館図書裡会が建立した。
                         函館市





「宮崎郁雨の歌碑」

さびたの花はいつ咲く

  ──啄木雑記帳より──
           宮崎郁雨

「啄木が苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)を頼って函館に来たのは、明治40年の春、山麓の其処此処にさびたの花が咲き初めた5月の5日であった。夙に世に天才の名を謳われた未見の詩人に見参しようと、その夜青柳町露探小路の苜蓿社にはかなり多数の同人達が集まった。折柄机の上の一輪ざしに挿した花を見て居た啄木が『その白い花は紫陽花に似てるけれども違う様ですね。何の花ですか』と聞いた。『それはさびたのパイプの花です』と蕗堂が答えると途端にどっと皆が笑った。」
(翌年、ふっとある事に思い当って、私の心は俄に騒ぎ始めたのであった。5月5日という函館の早春に、さびたが果して開花して居たかどうかという問題が、私の良心をゆさぶるのであった。)
本稿が読者の目に触れる頃は、恰もさびたの花期を確めるに好個の季節と思われるので、或は曽ての啄木達の散策の跡を尋ね、碧血碑畔に漢詩の小碑を訪らい、序を以てさびたの花を其処此処に探って、私の心の混迷を解いてくれる有志者があるかも知れないと、楽しい嘱望を胸に秘めながら、私は遙に遠い函館の空を恋い偲んで居る。
(昭和34.3.30、東京下北沢の寓居にて 「海峡」昭和34年5月)(「國文學」昭和50年10月号(1975年))






「宮崎郁雨の歌碑」

上の写真と同じ歌碑だが、15分くらいの時間が経っている。
雪の降る歌碑を見てから立待岬の尖端の方へ行った。その帰りにはもう雪は止んでいた。



            郁雨

   蹣跚と
    夜道をたどる
       淋しさよ
    酒はひとりし
      飲むものならず


(まんさん【蹣跚】よろめき歩くさま)

「啄木日記」  明治40年9月12日

この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新らしき友を多く得ぬ。我友は予と殆んど骨肉の如く、又或友は予を恋ひせんとす。而して今予はこの紀念多き函館の地を去らむとするなり。別離といふ云ひ難き哀感は予が胸の底に泉の如く湧き、今迄さほど心とめざりし事物は俄かに新らしき色彩を帯びて予を留めむとす。然れども予は将に去らむとする也、これ自然の力のみ、予は予自身を客観して一種の楽しみを覚ゆ。
この日、昨日の日附にて依願解職の辞令を得たり、
午后高橋女史をとひ、一人大森浜に最後の散策を試みたり
 (「啄木日記」『石川啄木全集』第5巻 筑摩書房 1986年発行)
 







与謝野鉄幹・晶子の歌碑の近くから岬の先端方向をのぞむ」



『函館の啄木と節子』金野正孝 著
啄木を偲ぶ宮崎郁雨の歌

           宮崎郁雨

   秀才みな早く世を捐て凡庸のわれ生きのこるその苜蓿社
       <秀才(すさい)>
       <捐(す)て>
       <苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)>
   函館に郁雨なほ生き住めること伝説めけば恋ひし啄木
   この凡愚すらに劣りし世すぎして死にたるあはれ秀才啄木
   潮かをる立待岬の崖の際玫瑰咲けり啄木の墓
       <玫瑰(はまなす)>
   生きてあらば角などとれてよきほどの老爺となりて居む啄木も
   唯一のわれの遺業となるならむ啄木の墓を撫でてさびしむ

(『函館の啄木と節子』金野正孝 著 啄木と節子をたたえる会 発行 1987年発行)(小樽啄木会HP参照)






「思いのままに生きた啄木」宮崎顧平

  • 私は石川啄木の義弟宮崎大四郎(郁雨)の実弟であるが、私の啄木に対する印象は、実に吹けば飛ぶような淡い印象でしかない。それは啄木が二十二歳で函館に来た当時、私が僅か十三歳の時の印象であるからである。

(啄木たちは宮崎の家に集まり和歌の朗詠や批評をしていた。時々室から出て庭にあるトイレに行った)

  • 啄木が私の実家のトイレに通う往復に、私の立っている前を通過する時、「これが郁雨の弟だなー」と笑顔で私を見ながら立ち止まっていったのを見て、私はとても嬉しく思ったものである。
  • 私の啄木に対する印象を、現在八十三歳の私が卒直簡潔に示すならば、啄木ほど自分の思想、希望、行動を何の蟠りなく、すらすらと自由に言葉として云い、文章に書き尽し、能動的に行動し、自分の損得や他人に対する影響等一切超越して、自分の思いのまま進めていった人は、世には余りないのではないか、(略)何の矛盾も、不安もなく全く虚心坦懐なのである。そこに啄木の偉大さがある。

(「思いのままに生きた啄木」宮崎顧平(宮崎郁雨氏実弟) 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))




(つづく)