6 「石川啄木一族の墓」
「“石川啄木一族の墓”を示す木柱」
車は冬期通行止めになっているが、徒歩は大丈夫。
この先に駐車場があるが一台も車はなかった。
施設整備や除雪用の車だけが通っていた。
「石川啄木一族の墓の説明」
石川啄木一族の墓
明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は昔蓿社(ぼくしゅくしゃ 文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去った。 大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。
「海が見える」
「汗に濡れつつ」石川啄木
海と云ふと、矢張第一に思出されるのは大森浜である。然し予の心に描き出されるのは、遠く霞める津軽の山でもなく、近く蟠まる立待岬でもなく、水天の際に消え入らむとする潮首の岬でもない。唯ムクムクと高まつて寄せて来る浪である。寄せて来て惜気もなく、砕けて見せる真白の潮吹である。砕けて退いた後の、濡れたる砂から吹出て、荒々しい北国の空気に漂ふ強い海の香ひである。
(石川啄木 原稿断片「汗に濡れつつ」『石川啄木全集』第4巻 筑摩書房 1985年)
「階段を上る」
先にお参りした方の足跡をたどり階段を上る。
上がって右が啄木一族のお墓になる。
「碑文」
啄木一族墓
啄木
東海の
小島の磯の
白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
『啄木の函館』竹原三哉
- 「啄木一族墓」、この命名と墨書は郁雨に依る。
- 墓はなにかと変化している。郁雨によれば、石柵の鉄棒は戦時中に盗まれ、花立ての一つが凍結破損し、もう一つはいつの間にか消えていた。
- この墓には現在、九名のお骨が納められている。啄木、節子、京子、真一、房江、カツ、一禎、正雄(分骨)、玲児(分骨)である。玲児とは京子・正雄夫妻の息子で、平成10年に没している。啄木・節子夫妻からは孫となる。
(『啄木の函館』竹原三哉著 2012年発行)
石川啄木「東海の小島」歌について 神谷忠孝
「蟹」の意味
- 宮崎郁雨は、大正2年、函館に啄木一族の墓を建立したとき墓碑銘に東海歌を選んだ理由を後年になって『函館の砂』(東峰書院、1960)の中で次のように書いている。
- 「蟹」は、尻沢辺の磯の岩蟹でもなければ、大森浜の渚辺の穴に住むへら蟹でもなく、それは彼が泣きながら真剣に取組んでゐる彼の個性であり、自我であり、文学であり、思想であり、哲学であった。その「蟹」は然し本物の蟹と等しく、彼の人生行路ではひねもす横這いし続けて居た。その蟹は時としては鋏を振立てて彼自身に敵対もするのだが、彼はそれを愛惜したり、憐憫したり、憎悪したり虐待したりして、遣り場のない鬱情を霽らして居た。この歌はさうしたみじめな生涯を自憫する啄木の悲鳴であった。その様な啄木の悲しい姿を憶い描きながら、彼の墓のために此歌を撰んだ。
- なかなか含蓄のある解釈である。明治40年の「蟹に」と一年後の東海歌の「蟹」には自己を投影しているという共通性があり、啄木が「蟹」に托した象徴性が注目される。
(「石川啄木「東海の小島」歌について」神谷忠孝 函館市文学館「生誕120年記念 石川啄木」 2006年発行)
<碑陰>
啄木書簡之一節
これは嘘いつはり
もなく正直尓言ふのだ、
『大丈夫だ、よしよし、
おれは死ぬ時は函館へ行
つて死ぬ』 その時斯
う思つたよ、何處で死
ぬかは元より解つた事
でないが、僕は矢張死ぬ
時は函館で死にたいやう
に思ふ
君、僕はどうしても僕の
思想が時代より一歩進ん
でゐるといふ自惚を此頃
捨てる事が出来ない
明治四十三年十二月二十一日
東京市本郷弓町二の十八
石川啄木
郁雨兄
「函館山」
函館山から伸びるロープウェイの線が白雲をバックに細く続く。
「啄木一族はなんと素晴らしいところに眠っているのだろう」
石川啄木一族の墓(中央)のすぐ右には、宮崎家一族之奥城と宮崎郁雨歌碑が写っている。
『啄木の函館』竹原三哉
お墓の石段を上って墓碑の正面に立ち、振り返れば、向かう先には谷地頭の町を頭越しに、函館公園と旧図書館、そして懐かしい青柳町の一角が目に入る。
この墓所からの眺めは絶景と呼んでいい。岡田が着眼し、郁雨も賛同して此地を選定した思いが偲ばれる。啄木が好んで散歩した大森浜もすぐそこに見下ろせ、尚かつ、未亡人となった節子夫人が幼い娘たちと共に過ごした、僅か四カ月足らずの侘びしかったであろう借家住まいの跡辺りも望見出来る。郁雨ならずとも、岡田健蔵の墓所選定の着眼には敬服せざるを得ない。
(『啄木の函館』竹原三哉著 2012年発行)
(つづく)