〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木と魂のめぐり合い 立原道造

[ツリバナ (カエルの顔)]


生誕100年 「盛岡ノート」いまむかし3
 面影追った北の街 生き急いだ詩人と歌人
  啄木と魂のめぐり合い

  • 1938(昭和13)年9月、愛宕山にあった四戸慈文(深沢紅子の父)の山荘で暮らし始めた立原は、さっそく盛岡の街に出た。少年時代から心酔していた啄木の面影を追って、下小路(愛宕町)を本町通に向かうと、富士見橋の十字路にあたる。木造だった先代の橋を渡れば、磧町(加賀野1丁目)は啄木の「小天地」発刊の地であり、街角は歌人の記憶をまだ宿していた。
  • 「盛岡ノート」で立原は、当時の街並みを「稚拙」と表現する。既に高層ビルが軒を連ねていた帝都の建築家は地方都市をそう表したが、大都会の蔑視はなく、むしろ歌人啄木の揺り籠となった城下町への、ほのかな愛情がうかがわれる。
  • 盛岡滞在後の立原は帰京し、西日本に向かい、「長崎ノート」を著して、両作品は立原文学の記念碑として読み継がれている。立原の紀行は建築家らしい理知に裏打ちされ、放蕩(ほうとう)によって石もて追われた啄木の流浪とはコントラストをなす。しかしそれは、時代を生き急ぐ天才の業(ごう)という点では、悲しくも一致していた。
  • 啄木の歌には野に咲く花の爛漫(らんまん)が香り、立原の詩にはガラスの街の緻密が光る。明治と昭和に時を隔てた二人の文学は、盛岡の街に魂の邂逅(かいこう)を果たし、早世の才を惜しまれながら、文壇に刻印されている。(鎌田大介)

    =月1回掲載=
(2014-08-26 盛岡タイムス)

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