〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木学級 文の京講座」<その2(終)> 啄木行事レポート

<イベントに参加しての私的レポート>


[啄木の画像がペンのクリップに!]


<その2(終)>
啄木学級文の京(ふみのみやこ)講座  2012年7月5日


第3部 対談「愛され続ける啄木」 国際啄木学会副会長 池田功氏×石川啄木記念館学芸員 山本玲子氏

1 没後100年をめぐって

  • 山本 文の京講座のほかに、啄木かるたの普及、啄木記念館の企画展、啄木紙芝居作製、江戸糸あやつり人形芝居「笑うタクボク・雲は天才である」、などの記念事業をすすめている。ほかに募金活動(書簡購入、高田松原の歌碑建立)などもしている。啄木歌碑は全国170カ所ほどある。これは啄木が愛されている証であると思う。
  • 池田 文京区長さんからもお話がありましたが、啄木終焉の地の歌碑再建に取り組んでいる。みなさんからの募金をお願いしたい。「死」については、生物的死と社会的死は違う。啄木は社会的にはまだ死んでいない。愛され続けている。その証として、中高等学校の国語教科書に載っている歌人は、啄木がダントツに多い。歌の内容でいうと戦前は親孝行の歌が、戦後は働くこと・命に関わる歌が多い。啄木は国民詩人といってもよい。それだけではなく、啄木作品は14の言語で17カ国語に訳されている。国際啄木学会というものがあり、韓国や台湾やインドで学会を開いている。啄木は、国際詩人といってもよいと思っている。


2 26年の人生について注目すべき点など

  • 池田 啄木は借金があるから…と悪いイメージの人が多いと思う。しかし、啄木のまわりには彼に懸けた人が多い。詩集『あこがれ』は、啄木19歳のときに刊行した。級友小田島真平の兄尚三の厚意で、尚三の出兵記念として300円(現在では200万円以上)を出版のために出してくれた。「啄木に懸けてみよう」という気持ちだったのだと思う。
  • 山本 啄木は職業としては代用教員をしている。私は、啄木は働いたと思う。教育者としてすばらしい教育論を持っていた。「教育とは人間をつくることだ」と明治の時代に言っている。


3 啄木短歌の魅力

  • 山本 啄木は花が好きだった。花を詠んだ歌が150首ほどある。花の種類は、50種くらい。薔薇のような目立つ花も野菜の花のように目立たない花もある。部屋の中に花を生けたり、金田一京助の部屋に花瓶を買ってあげたりしている。

   学校の図書庫の裏の秋の草/黄なる花咲きし/今も名知らず
 名前を知らない花でも歌にしているところが素晴らしい。

  • 池田

   不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心
この歌には、15歳の頃の不安な気持ちがよく表現されている。尾崎豊さんも啄木と同じ26歳で亡くなった。彼の「15の夜」は、啄木とは70年くらい間が空いているが、夢・不安・大人への反抗など啄木の頃とあまり変わっていない。


4 短歌以外の啄木作品の魅力

  • 山本 私は啄木記念館に勤めて、初めに啄木の日記に興味を持った。明治の時代に誰と会い何を食べたか何を考えたか、詳しく書いてあり興味を持った。また、啄木記念館は啄木の手紙をたくさん持っている。直筆をみるとそこから啄木が見えてくることもある。
  • 池田 私は55歳になるが、26歳で亡くなった啄木の深い生涯に興味が尽きない。小説、評論、日記など、こんなにも深く書いていたことに驚きだった。「ローマ字日記」には、どうにもならなくなった青年の悩みが描かれている。日記文学の最高傑作だと思う。啄木は外国に行ったことはないが国際的な目をもっていた。環境問題についても、今日のこの会場近くのビッグエッグ(東京ドーム)は、明治時代は兵器をつくる砲兵工廠だった。当時、高台に住んでいた啄木は砲兵工廠の3本の大煙突から黒い煙が出ているのを見て「風下の人は肺を病んでしまうだろう」と、公害に通じる視点を持っていた。


5 これからの啄木をめぐって

  • 池田 研究者仲間だけを相手に重箱の隅をつつくだけではなく、もっと啄木の魅力を語り合いたい。こんなに多くの人の前で啄木について語る機会を与えてもらってありがたかった。
  • 山本 啄木の魅力をたくさん紹介していきたい。啄木のことを話すのに、誰もが研究者にならなくてよい。啄木について誰もが自由に思ったことを話せるようになるとよいと思う。もっともっと啄木のことを知りたいと思う人々に、きょうは少し応えられたかなと思っている。


<啄木学級文の京講座(終)>