〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「2011 盛岡大会」<その 2 > 講演 熊坂義裕 2/2 啄木行事レポート

《関連イベントに参加しての私的レポート》



[開運橋から見る北上川岩手山]


<その 2 >
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講演
  熊坂義裕「東日本大震災のこと 〜宮古市と啄木にも触れながら〜」
   ・盛岡大学栄養科学部長・前宮古市


(つづき)

  • 啄木(明治19年生まれ)が高等小学校のとき、三陸津波明治29年)が起きた。啄木が津波について書き残したものはないと思われるが、非常に天才な彼だからいろいろなことを考えたのではないか。明治34年、啄木が冨田先生や友人とともに訪れた高田松原の松は、今回被害にあってなくなってしまった。
  • 啄木が明治41年に滞在した釧路の76日間は、彼にとって幸せなときであり釧路市民にとっても誇りである。石碑も全国一くらいの数がある。釧路市は本当に啄木を大事にしている。岩手の人はもっと啄木を大事にしないと…。今はまだ足りない。
  • 明治41年4月6日、啄木は上京途中、宮古に6時間ほど寄った。啄木最後の岩手の地が宮古だったことは宮古の人たちも嬉しい。

啄木の日記「明治41年4月6日」

起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が眼界を閉ぢて、海は灰色の波を挙げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。
十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先きに届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になつたり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。街は古風な、沈んだ、黴の生えた様[な]空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎮痛膏をこめかみに貼つた女の家でウドンを喰ふ。唯二間だけの隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習つて居た。芸者にするかと問へば、“何になりやんすだかす。”
夜九時抜錨。同室の鰊取の親方の気焔を聞く。

  • 方丈記でも徒然草でも残ったものはみな文章がすばらしい。啄木は文章の天才だから書いたものが残った。



[講演する熊坂義裕氏]

  • 節子の家出と大逆事件が啄木に与えた二つの大きな出来事だった。
  • 宮古出身の新聞記者・小國露堂は啄木の8歳上。啄木に社会主義を教え、目覚めさせた人物では露堂がナンバーワンだと思う。露堂に影響されて啄木は大逆事件のあの行動になったのではないか。
  • 啄木は本当に有名な人とつきあいがある。与謝野晶子とか森鴎外とか。なぜ付き合ったかというと、才能があったから。彼の才能をみんな認めたのだと思う。
  • 私は藤沢周平が大好きで彼の作品はほとんど読んでいる。藤沢周平は渋民に来たりして「啄木のことを書きたい」と言っていた。啄木と藤沢周平は相通じるところがある。
  • 啄木の残したものは、我々が明日を生きる勇気を与えてくれると感ずる。


(研究発表につづく)