〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(㉔ 手紙と日記(下))


[キョウチクトウ]


「啄木 賢治の肖像」

 ㉔ 手紙と日記(下)
  人間の苦悩、喜び克明

  • 明治時代の文学作品中、私が読んだかぎり、私を一番感動させるのは、ほかならぬ石川啄木の日記である」コロンビア大名誉教授で日本文学研究者のドナルド・キーンさんは、著書でこう記す。
  • 啄木は盛岡中学校(現盛岡一高)を中退し、文学で身を立てるため上京する1902(明治35)年10月に最初の日記「秋韷笛語(しゅうらくてきご)」を書きはじめる。以来26歳で亡くなる2カ月前まで、約10年間で13冊の日記を遺した。
  • 中でも啄木の心中が表れているのが1909(明治42)年4月から家族が上京する6月までの間に書かれた、いわゆる「ローマ字日記」だ。日記には主人公「Yo(予)」が文学と家族、生活のはざまで苦しんでいる状況が、第三者が読んでも分かるような工夫が凝らされている。国際啄木学会会長で明治大教授の池田功さんは「啄木は、内面の弱さを含めて徹底的に正直に赤裸々に描写した。読むと一人の人間の奥深い苦悩や喜びを追体験でき、元気をもらえる」と魅力を語る。
  • 函館市文学館では10月4日まで、企画展「函館に守り遺されてきた啄木日記」を開催、日記を公開している。福原至館長は「文学や家族への思いなど、人間啄木の揺れ動く気持ちが文字に表れており、伝わってくる」と感じ入る。


☆最後の記述、虚飾排す  作品に見る啄木

日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。
 「千九百十二年日記」1912(明治45)年2月20日付より。

この記述は啄木生前最後の日記。自身や家族の病とその薬代などにより経済的に困窮していた様子がよく分かる。
この後3月7日に母カツ、そして4月13日には啄木が亡くなる。
池田さんは「どうにもならなくなった絶望的な状態を、虚飾を排した文章で記している。前途洋々たる16歳の日記から、10年間で大きく変化した」と、内面の変化を読み取る。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-06-15 岩手日報
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