〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 啄木の努力や葛藤を明らかに「時代閉塞の現状に宣戦する志─」<1>


[ハタケニラ]


月刊「民主文学」2017年12月号
 特集 明治百五十年
石川啄木 ──時代閉塞の現状に宣戦する志──」<1>

         池田 功
 

  • 大江健三郎日米安保闘争のあった翌年に、「強権に確執をかもす志」(『世界』1961年7月号)を書いている。その中で「今から五十年まえ、私とおなじ年齢で死んだ日本の文学者に石川啄木という秀れた詩人がいる。かれが死ぬまえに書いたエッセエの一節に《われわれ日本の青年は、いまだかつてかの強権にたいして何らの確執をもかもしたことがない》という批評がある。われわれ五十年後の日本の青年は、とにかく強権に確執をかもしたのだ、この叛逆精神、抵抗精神は、われわれにとって確かに血肉となっているにちがいないと信じたい」と記している。この引用の文章は啄木の「時代閉塞の現状」からとられている。また加藤周一は『日本文学史序説下』(1980年)の中で、「1910年前後の時代の特徴を、鋭く体現していたのは、詩人ジャーナリスト、石川啄木である」と記し、「時代閉塞の現状」の文章を引用し評価している。
  • このように、大江や加藤が、自らの思想の拠り所の一つにして引用している、「時代閉塞の現状」とはどのような文章なのであろうか。またそれを書くまでの啄木には一体どのような努力や葛藤があったのだろうか。そのことを明らかにしてみたいと思う。


◦ 浪漫主義者でナショナリスト 
石川啄木(1886〜1912年)が国家権力と鋭く対決する「時代閉塞の現状」を書くようになれるのは、短い26年2ヶ月の人生の晩年である。そこに至るまでには、長い成熟期間を要した。18歳の日露戦争中の啄木は、日本国家と一緒になって戦争を賛美する文章を書いていた。

◦ 反転する思想
こんな啄木が大きく変化する。その端緒は、故郷の渋民を出て行くことにあった。渋民の宝徳寺の住職であった父一禎が、宗費滞納のために寺を追われる。啄木は新天地を求めて、函館、札幌、小樽、釧路と転々とする。この小樽での極貧生活が啄木の思想に影響を与える。失職し貧乏であるという不条理は社会組織が悪いからであるとし、破壊してしまわなければならないと日記に記す。

◦ 妻節子の家出事件
単身上京した啄木は、1909年3月より東京朝日新聞社の校正係となる。そして6月には、妻子と母が函館より上京し一緒の生活を始める。ところがわずか4ヶ月後の10月に、妻の節子が書き置きを残して長女を連れて実家に戻ってしまう。直接的な原因は嫁姑問題であった。しかし今井素子は「女の目で読めば、ここにはまず何よりも夫に対する痛烈な抗議、夫の愛情に対する不信」(『石川啄木論』塙書房)を感じると指摘している。
そのことを啄木自身も感じていたことは、妻の家出を境に心を入れ替えたことによっても分かる。両足を地面につけて、生活をきちんとした上で文学をやるという生き方の変化を通して、啄木には現実の不条理や強権の問題が見えてきた。そして丁度この後に、大きな事件が起きた。一つは大逆事件であり、もう一つは日韓併合である。


(いけだ・いさお 明治大学明治大学大学院教授、国際啄木学会会長)
 (月刊「民主文学」2017年12月号 日本民主主義文学会発行)


(つづく)