〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 啄木と濃密な交際を重ねた<小国露堂>の借用証発見


[ギョリュウバイ]


<小国露堂>借用証発見 陸東新聞発行の保証金工面
 「自分の手で新聞出したい」伝わる必死の思い 宮古 /岩手

  • 歌人石川啄木と交友のあった宮古市出身の新聞記者、小国露堂(おぐにろどう)(本名・善平、1877〜1952年)が大正元(1912)年、宮古で「陸東新聞」を発行する際の保証金を工面した借用証が宮古市内の民家で見つかった。陸東新聞が「盛岡新聞」と題字を変えて人手に渡った時期で、借用証には「陸東新聞発行ノ保証金ニ」と記してある。新聞発行に生涯をささげた露堂の必死の思いが感じられる。4日は、露堂が盛岡で亡くなって66年の命日。
  • 露堂は啄木の札幌時代、社会主義を語るなど濃密な交際を重ねた。啄木の代わりとして北海道の釧路新聞に約1年2カ月勤め、網走などを経て宮古に帰って「宮古新聞」(旬刊)を創刊した。明治44(1911)年9月のことだった。宮古新聞は間もなく「陸東新聞」に改題し、部数も増えて先行きに希望が見えてきた時、突然、経営が変わった。題字が盛岡で発行する「盛岡新聞」(夕刊)に改められ、主筆には岩手公論(当時)の記者が就任した。
  • 借用証は「何とか自分の手で新聞を出したい」という願いが込められている。「宮古町横町 借用人 小国善平」とあり「連帯借用人」として「鈴木慶蔵」という名前もある。金額は100円で、日付は「大正元年8月15日」。当時の新聞発行は日刊、旬刊などによって一定の保証金を積まなければならなかった。元号が明治から大正に替わって2週間余りしかたっていない。
  • 露堂はこの後、再び北海道に渡り、釧路で「東北海道新聞」を発刊して電気料金値下げ運動を展開した。宮古新聞は1941年、岩手日報に統合されて廃刊。露堂は戦後、盛岡で貸本屋を営み、74歳で亡くなった。「われ死なば 石碑は要らず大石に 名もなきものの墓と書くべし」。生前露堂が詠んだ中から、子や孫らが選んだ辞世の歌だ。【鬼山親芳】

(2018-02-03 gooニュース>毎日新聞


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