〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(㉘ 病と死)


[ニワトコ]


「啄木 賢治の肖像」

 ㉘ 病と死
  体調悪化克明に記す

  • 啄木は1902(明治35)年10月、盛岡中学校(現盛岡一高)を退学し上京する際に日記を書き始める。体調不良を自覚したという記述が現れるのは、その翌月のことだ。「午後図書館に行き急に高度の発熱を覚えたれど忍びて読書す。四時かへりたれど悪寒頭痛たへ難き故六時就寝したり」。
  • 1911(明治44)年2月初めに慢性腹膜炎と診断され、東京帝大医科大付属病院(現東京大医学部付属病院)に入院。3月に退院し自宅で療養することになった。
  • 翌年は、年の初めから病状や発熱の記述が多くを占める。「私の家は病人の家だ、どれもこれも不愉快な顔をした病人の家だ」(1月19日)。こう書いた4日後、喀血を繰り返していた母カツが結核と診断される。一家に影を落とす病苦の正体が判明するが、すでに手遅れだった。
  • 2月20日を最後に、日記は断絶。3月7日にはカツが亡くなる。約1カ月後の4月13日、若山牧水と父一禎、次女を妊娠中の妻節子が見守る中、午前9時半、26年の短い人生の幕を下ろした。
  • 啄木の死因は、長い間肺結核とされてきた。しかし、日記や書簡類にも喀血など結核特有の症状の記述はなかった。亡くなる前の様子を金田一は「骸骨の骨盤に皮がかかっているようなお尻」「幽霊のような顔になった」、牧水は「『枯れ木の枝』と呼ぶ様になっていゐた」と、やせ細っていた姿を回想している。
  • そうしたことから、埼玉県立川越高教諭の栁澤有一郎さんは群馬大教育学部に在学中、死因に疑問を抱き、啄木の病歴について詳しく調べた。日記や手紙に見られる病気の症状を医師に分析してもらったところ「死因は肺結核一つではなかった。肺結核結核性胸膜炎、腸結核結核性腹膜炎の合併症状により死に至る『結核症による衰弱死』の可能性が高い」と結論づける。


☆最晩年の悲痛な心境 作品に見る啄木

   呼吸(いき)すれば、
   胸の中にて鳴る音あり。
    凩(こがらし)よりもさびしきその音!


   眼閉づれど
   心にうかぶ何もなし。
     さびしくもまた眼をあけるかな
          「悲しき玩具」より。

  • 冒頭に収められているこの2首は啄木の最晩年に作られており、かなり進行した病気の症状とそれによる悲痛な心境がうたわれている。
  • 亡くなる2カ月半ほど前の1月30日の日記には「私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのつて神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひに出かけた」とある。栁澤さんは、原稿用紙のヒョウタン型の印から調査を進め、冒頭2作品が、生前最後の自由な外出となったこの日に買い求めた相馬屋のものであったことを突き止めた。同日はまた、ロシアの無政府主義者クロポトキンの「ロシア文学」も買っている。
  • 「体の具合は相当悪かったはずだが、啄木はまだまだ書くつもりで原稿用紙を買いに行った。晩年に深めていた社会主義思想についての評論やエッセーを書こうとしていたのではないか」と栁澤さんは想像する。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-07-13 岩手日報


「相馬屋製」原稿用紙の写真