〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(㉕ 時代(上))


[ユキノシタ]


「啄木 賢治の肖像」

 ㉕ 時代(上)
  反骨精神で世に問う

  • 啄木にとって文学上の進むべき方向を指し示す光となったのが、与謝野鉄幹の主宰する東京新詩社の機関誌「明星」。盛岡中学校(現盛岡一高)の先輩である金田一京助から借りて読み、感化された。
  • 1902(明治35)年10月に明星に歌が掲載された直後に盛岡中学校を退学。文学で身を立てるために上京する。渋谷の東京新詩社を訪ねた時の日記には、「世人の云ふことの氏にとりて最も当れるは、機敏にして強き活動力を有せることなるべし」と鉄幹の魅力的な姿を記している。しかし、1908(明治41)年、再会した鉄幹に、かつての輝きは感じられなかったようだ。明星は赤字を出すようになっていた。啄木は日記に「此詩人は老いて居る」など、鉄幹の老化を3度も指摘している。明星は11月、100号で終刊を迎えた。日記には「あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして予自身もその戦士の一人として、与謝野氏が社会と戦った明星は、遂に今日を以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠つてゐる」と感慨を込めている。
  • こうした中、1910(明治43)年10月、尾上柴舟が、形式や古語の表現の限界から、短歌の滅亡を唱える「短歌滅亡私論」を文芸誌「創作」に発表する。これに鋭く反応したのが啄木だった。翌月、「一利己主義者と友人との対話」を掲載。「人は歌の形は小さくて不便だといふが、おれは小さいから却つて便利だと思つてゐる」「歌といふ詩形を持つてゐるといふことは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ」などと反論した。
  • 同年12月に啄木は第1歌集「一握の砂」を刊行。ここに至って独自の短歌観を確立してみせた。国際啄木学会の元会長で天理大名誉教授の太田登さんは「『一握の砂』は短歌を読み進めることで、小説以上のドラマ性が生まれている。小説中心の時代にあえて、短歌はまだ滅びない、という思いを込めて世に問うた作品だった」と啄木の反骨精神をみる。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-06-22 岩手日報