〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

今日 命日の啄木・・どんな人?

日本気象協会
今日4月13日は石川啄木の命日です。教科書では見たけれど・・・さて、どんな人かしら?

「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
「たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」

  • ともに『一握の砂』に収録されているこの短歌は、みなさんきっと聞いたり読んだりしていることでしょう。石川啄木は明治時代に生きた歌人であり詩人です。貧困の中に26歳の若さで結核で亡くなりました。短い生涯でしたが残した作品は全集にしておよそ八巻。詩や短歌だけでなく小説や評論と幅広い活動をしていました。


〇「啄木」とは「キツツキ」のことですが、名前にしてはちょっと変わっていませんか?

  • 啄木の本名は「一」と書いて「はじめ」。生まれたのは岩手県の日戸(ひのと)村という小さな村でした。父親が渋民村にある宝徳寺という曹洞宗の寺の住職になり、寺周辺の林にいるキツツキの立てる音に心を奪われ、17歳の時にキツツキについての詩を書いています。そして漢字表記の「啄木鳥」から2字をとって、雅号を「啄木」としたそうです。


〇天才、神童といわれた幼少期でしたが・・・

  • 啄木は渋民村で尋常小学校を、盛岡市で高等小学校を最高点で卒業して地元で神童とよばれます。12歳の啄木少年はその後、盛岡の尋常中学校へも高成績で入学します。
  • 天才といわれた少年も中学校2学年目ころから成績が落ち始め、16歳の時には期末試験の不正が発覚し、落第を余儀なくされることになります。この最悪の時に受け取ったのが、啄木の歌の一首が『明星』に掲載されるという朗報です。中学を自主退学して文学者として身を立てようと啄木は16歳で東京へ出立するのです。
  • しかし、収入の当てがなくなり、結核の発病もあって父親が迎えに来て盛岡に帰ることになります。啄木の背中には住職を解任されて収入のなくなった父と母、そして妹の光子の扶養がのしかかり、貧乏と放浪の苦難の生活が始まるのです。


〇日記こそ啄木の残した素晴らしい作品だ、ともいわれています。

  • 啄木は明治35年、初めての上京を機に日記をつけ始めます。それは題名をつけ序を書き、自己の理想郷を建設せんとするために信念にしたがって精進していく意欲を高らか記して始まっています。
  • 啄木の日記の中で特に注目されるのが『ローマ字日記』です。読むと日本語ですけれど表記はアルファベットで書いてあるものです。若い啄木が家族を養う責任を負いながら、ままならない仕事と、書いても実らない文学への焦燥と戦いを吐露した日記だからこそ、啄木の文学の粋が込められているのではないでしょうか。


〇明治の現代歌人 それが「啄木」

  • 啄木の歌はだれが読んでもスッと理解できる優しさを持っているとおもいませんか? それは日記と同じようにその日その日の出来事と、心の動きを素直に歌にしているからだと思われるのです。


『一握の砂』より
「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きに行く」
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」

  • 104年前の今日、26歳と2ヶ月で亡くなった石川啄木を少しは身近に感じて頂けたでしょうか。

  
  参考文献:『石川啄木ドナルド・キーン 角地幸男訳 新潮社
       『啄木日記を読む』池田功 新日本出版社

(2016-04-13 日本気象協会>ネタりか)

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