明治の米国人顧問も絶賛 経済成長の礎となった寺子屋教育
国民1人ひとりの能力の基本は、教育である。そこで今回は、わが国の明治以来の発展の背景にあった教育について取り上げることとしたい。
- 米国人の教育顧問に絶賛された 江戸の寺子屋教育
- 7000種もあった寺子屋の教科書 「画一的」と言うにはほど遠い教育
- モーレルが絶賛した江戸の寺子屋は、随時入学。授業時間は午前7時半ごろから午後2時までくらい。しかし、7時半過ぎに来ても遅刻というわけではない。
- 教える側の教師の多様性。明治5年の学制発布以降、各県に師範学校が設けられたが、給与が低く教員のなり手がない中で、師範学校卒業でなくてもそれなりの学歴のある多様な人々が当面の口つなぎとして代用教員となり、教壇に立っていた。
- 明治40年には石川啄木が(渋民尋常高等小学校尋常科)、大正10年頃には小津安二郎が(三重県松坂町)代用教員となっている。田山花袋の小説『田舎教師(明治42年)』の主人公も代用教員であった。この他にも、石牟礼道子が水俣で、宮尾登美子が国民学校で、宇野千代が山口県で、加藤楸邨が水戸市で代用教員を務めていた。(松元 崇)
(2015-03-26 ダイヤモンド・オンライン)
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