〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木WEEK(終)」池田功氏の講演 啄木行事レポート

《関連イベントに参加しての私的レポート》


[池田功 氏]


石川啄木WEEK」東京・八重洲ブックセンター
12月20日
講演「啄木文学の魅力を語る」池田 功

◎ 啄木日記について

  • 16歳から26歳までの10年間、13冊の日記を書く。

最初の日記は明治35年10月30日。
「運命の神は常に天外より落ち来つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板上の伝記の道に一展開を示せり。」
気取りに気取った文体で書かれている。文体が変化したのは明治41年1月1日から。それ以後は死ぬまで口語体で書いた。
生涯最後の日記は明治45年2月20日
「日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。さうしている間にも金はドンドンなくなつた。」
虚飾を廃した口語体で、ありのままに書いている。2週間後に母が亡くなり、その1ヶ月後に啄木も亡くなった。

  • ローマ字日記は、明治42年4月7日から2ヶ月ちょっとの間書いた。私は、啄木はローマ字で日記を書くことによって、ローマ字日記を文学として残したいという意気込みがあったのだろうと考えている。

単なる備忘録の日記とは全く違う。これは創作作品だ。冒頭に、主人公・予が抱えている一番の問題は「家族を呼びよせること」だという描写がある。読む人にとっての「まえがき」の役割をしている。登場する「坂牛君」や女中の「おきよ」という人物については、第三者にわかるように客観化している。最後は、家族が上京してきて物語が終わる。話の最初と最後がきちんと出来ている。

  • 今年、日本に帰化したキーン・ドナルド先生(90歳)が、啄木日記を評価している。

「明治時代の文学作品中、私が読んだかぎり、私を一番感動させるのは、ほかならぬ石川啄木の日記である。(中略)私が意味するところは、啄木日記のほとんどすべての文章が、私の心を打つということ、そして他の誰よりも、啄木のことを、まるで親友であるかのように感じる、ということにほかならない」(『続 百代の過客下 日記にみる日本人』)
こんなに褒めていいんですか、と驚くくらいキーン先生は啄木日記を褒めている。自分の赤裸々な気持ち恥ずべき事を書いていることに先生は心を動かされたと思う。

  • 私は1988年から2年間、韓国の大学で日本文学のゼミを担当し、『ローマ字日記』をテキストにした。パートを決めて読み、感想を述べていった。学生たちは、国も民族も時代も違っていながら、私たちと同じように感動し面白いと言ってくれた。
  • 私は、赤裸々なことより、啄木が絶望的な状態に陥ったときに「勇気を出して生きていかなければいけない」と書いている部分が好きだ。「死のうか、生きようか」と書いた後に、「やっぱり生きなければいけない」と生きることを選んでいくところに啄木日記の面白さを感じた。


[明日への扉を開く]

会場は八重洲ブックセンターの8階。
入口の手前はブックセンターの売り場で、手帳・日記・カレンダーフェア開催中だった。啄木もふくめて、手帳も日記もカレンダーもみんな明日への扉




[途切れぬ質疑応答]



[温かく透明な空気に包まれて]




[鏡の間]
左:八重洲ブックセンタービル 中央:グラントウキョウサウスタワー(最高部 205m) 右:常和八重洲ビル


(「啄木WEEK」終)