〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

札幌は秋風の国なり <その 4 >

啄木文学散歩・もくじ


北海道札幌市に啄木を訪ねて <その 4 >

「橘家庭園の前」
地下鉄東豊線東区役所前駅」または、「環状通東駅」で下車、徒歩10分。
石川啄木が函館区立弥生尋常小学校に代用教員として採用されたとき、同じ学校に橘智惠子が訓導として在籍していた。その智恵子の生家が、ここにあった。

一般道からまっすぐ碑が見えるのですぐ分かる。




札幌市東区北11条東12丁目2-15 橘氏宅」
事前にアクセス方法などを調べていたときのこと。
Googleマップストリートビューに「林檎の碑」が写っているのを見つけた。ボーイスカウトの建物の左に敷石が見え、そこを辿ると正面に碑があった。なぜかとても感動した。





「林檎の碑」
一般の人が橘家の敷地内に自由に入れるようにしてくれている。
橘家の温かい配慮に感謝する。




「斜め後ろから見る林檎の碑」
通りからの敷石に続き、円を描いて囲った石の中に碑が建っている。





「碑陰」

札幌村元村の林檎は橘仁が此地に定住し苗木を植付せる時より始まる
仁は東京に於て津田仙氏の学農社に学び」明治十七年春 苗木妻戸籍を携へ此地に住付き栽培す 適地で順調に生育せる樹は明治二十三年より結実初めて販売す 橘林檎園の誕生なり 隣地の農家にて之を倣ひたる約十名も全て林檎園とし以後十余年は年々収穫を増し当時仁は札幌の林檎栽培の第一人者として知られ北海道果樹協会会長北海道大学南鷹次郎博士の役員を務め全国博覧会に優等賞を受けその果実は宮内省に献上の光栄を担うに至る其後病害に会い他の農園は全て玉葱に転向せしも仁は再度作付し二十余年の昭和五年六月十四日仁没と共に林檎園は消滅す 仁が此地に基を定めて百年以上経ち其の孫三十余名は国内はもとより米国伯国に在る今祖父を偲びて此の碑を建立す 尚橘家と共に林檎栽培せる松澤巌氏此の企てに加わり大いなる力となり共に喜ぶ事が出来たのは幸ひである
昭和六十一年(一九八六年)九月 橘忍誌


此の林檎園に関わりのある詩を一首加ふ
  石狩の都の外の君が家
   林檎の花の
    散りてやあらむ  「一握の砂」より


*智恵子は、北海道岩見沢市北村豊里の北村牧場主と結婚した。しかし、産褥熱のため、愛する夫と六人の子を残しこの世を去った。満33才であった。「啄木と智恵子」のことは「北村牧場の啄木歌碑」へ(啄木の息 文学散歩)
(つづく)