第 14 回
第一部 青春の輝き(10)
天満宮(盛岡市)
美しい故郷恋い慕う
- 「美しい追憶の都」−。啄木は、盛岡中学や新婚時代など計8年余り暮らした盛岡を小説「葬列」で後にこう表現した。学友たちとの文学生活や、節子との恋に彩られた盛岡時代に寄せる啄木の心情をうかがわせる。
- 盛岡市中心部を流れる中津川にかかる上の橋から東へ約1キロ。天神山と呼ばれる小高い丘に天満宮がある。木々に囲まれた境内の西側、一段低い広場に啄木の歌碑が建っている。
病のごと/思郷のこころ湧く日なり/目にあをぞらの煙かなしも
(2012-07-04 岩手日報)
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第15 回
第一部 青春の輝き(11)
斉藤家(盛岡市玉山区)
一家伴い渋民に帰郷
- 1906(明治39)年3月、啄木は盛岡生活に終わりを告げ、妻節子と母カツを伴って故郷渋民に帰った。渋民は、一禎が免職された後の宝徳寺住職をめぐり、檀家が対立していた。帰郷に反対する人がいる中、啄木は斉藤佐五郎宅に間借りする。
- 啄木は、4月から渋民尋常高等小学校尋常科の代用教員として働く。啄木が暮らした家は、渋民の南寄りにあった。啄木の歌を刻んだ小さな碑は1954年、映画「雲は天才である」のロケを記念して建てられ、今も家の前に残っている。
かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川
(2012-07-11 岩手日報)
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第16 回
第一部 青春の輝き(12)
山本さん(石川啄木記念館学芸員)インタビュー
盛岡時代 多くの刺激
≪盛岡時代は、啄木の作品にどんな影響を与えたか≫
- 学生時代と新婚時代にいたので、盛岡は心ときめいていた、いい時代。さっそうと歩いていたような感じがしますね。この頃から啄木は庶民の生活を見つめていたと思います。新しいものをどのように受け入れたかということや心境を啄木は後に小説にする。そういう意味で盛岡時代は啄木の小説の根底になっている。これがあってこその『一握の砂』であり『悲しき玩具』であると思います。
- 晩年の暗くて病気と闘っている啄木はちょっと切ない。盛岡時代の啄木を思うことは好きです。若々しく元気な啄木に会えそうな気がしますね。
(学芸部 小山田泰裕)
○第一部終わり。次回からの第二部は北海道の碑を中心に紹介。
(2012-07-18 岩手日報)