〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 うたの風景 第 8・9 回」岩手日報

[エッ?]


第 8 回
第一部 青春の輝き(4)
  岩手公園(盛岡市
  中学時代の思い刻む

  • 1898(明治31)年春。12歳の啄木は盛岡尋常中学校(現・盛岡一高)に入学する。当時の学校は現在の岩手銀行本店が建つ一角にあった。洋風の木造2階建て校舎は「白亜城」と呼ばれた。啄木は時折、授業を抜け出し、歩いてすぐの距離にある城跡に出掛けていた。

   不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心

  • 啄木入学の翌年「盛岡中学校」と名前を変えた。その頃の盛岡中学は、「立志」の気風にあふれ、首相、海軍大臣を務めた米内光政をはじめ、生涯の友となる金田一京助言語学者)、「銭形平次捕物控」を書く野村胡堂がいた。胡堂は、体の小さい啄木の第一印象を「骨組みや腕っ節になる養分が、ことごとく知恵の方へ回ったという顔をしていた」(「胡堂百話」)と記す。
  • 4年生になると、啄木は回覧雑誌を作る。啄木の短歌が「翠江」という筆名で初めて岩手日報に連載された。その後も文芸時評岩手日報に度々掲載。中央文壇の知識とともに中学生とは思えない文学の素養を見せている。

(2012-05-23 岩手日報

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第 9 回
第一部 青春の輝き(5)
 高田松原陸前高田市
  受難の歴史 波に消え

   いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ

  • 昨年3月の大津波は、陸前高田市の名勝高田松原の海岸線約2キロにわたる松林を流し去った。そこにあった啄木歌碑は津波の後、行方が分からなくなっている。
  • 1900(明治33)年の夏。盛岡中学3年の啄木は、担任の富田小一郎の引率で級友5人と三陸海岸を旅した。富田は顎ひげを生やし、風格のある先生だった。歌集「一握の砂」に「よく叱る師ありき/髯の似たるより山羊と名づけて/口真似もしき」の歌を残し、親しみを感じていた様子が伝わってくる。
  • 「碑も、松原もこんなになるなんて」。大船渡市盛町の佐々木紀子さんは、高田松原の歌碑があった場所を眺めながらつぶやいた。一昨年発足した市民ガイド「椿の里・大船渡ガイドの会」の副会長を務める。震災直前に完成したガイドブックには「石川啄木の気仙周遊マップ」を収録。啄木が旅した場所にある七つの顕彰碑を載せた。高田松原の碑は、津波の前月に取材に訪れた。写真に残る歌碑は木々の緑に囲まれている。

(2012-05-30 岩手日報