〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

企画・連載「啄木 没後100年」読売新聞>岩手

「青春の歌人」啄木が亡くなって100年。その作品が古びず、色あせない輝きを放ち、今を生きる人たちの心をつかんで離さないのはなぜか。その秘密を探る。

〈1〉世紀を超え 生きる歌
 「歌の情景が目に浮かび、『啄木さん』との距離が縮まった気がした」

  • 石川啄木の101回目の命日前日の12日夜、盛岡市内で開かれた「啄木忌前夜祭」で、小学生から大学生4人が好きな啄木の短歌を語り合うパネルディスカッションが行われた。10代たちが親しみを込めて「啄木さん」と呼び、熱っぽく話す姿を見て、記者は啄木作品が世紀を超え、今も生きていると実感した。
  • 盛岡四高3年の佐々木もなみさんはこの一首を選んだ。

 古新聞!
 おやここにおれの歌の事を賞(ほ)めて書いてあり
 二三行(ぎやう)なれど。

  • 自分が所属する文芸部の合評会を重ね合わせ、「褒められたい、認められたいと思うのは人間皆同じ。啄木が身近に思える」と話す。
  • 盛岡市内では8月、全国の高校生が集まる「全国高校生短歌大会」(短歌甲子園)が開かれる。

(2012-04-18  読売新聞>岩手)
 

〈2〉歌碑 3度目の建立願う
 いのちなき砂のかなしさよ
 さらさらと
 握れば指のあひだより落つ

  • 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた陸前高田市。1本の松だけが残った名勝・高田松原は、啄木も盛岡中時代に訪れ、風光を激賞したことから記念に歌碑が建てられたという。その歌碑も震災の津波で流された。
  • 同市出身で、石川啄木記念館の館長を務める菅原寿さんは「海で亡くなった人たちを慰めているはず」と、流された歌碑に思いをはせる。菅原館長は「白い砂浜にピッタリの歌で、郷土の誇りだった」と思い出す。「復興する街を見守ってもらいたい」と、啄木の誕生日の来年2月20日に合わせて3度目の建立をしようと、募金活動を始めた。

(2012-04-19 読売新聞>岩手)
 
〈3〉現代「五行歌」の下地に

  • 啄木の生前に出版された歌集は「一握の砂」だけ。念願の第2歌集「悲しき玩具」が出版されたのは、死後2か月してからだ。
  • 小説家を志し、盛岡中を中退し16歳で上京した啄木。小説は認められず、皮肉にも短歌で脚光を浴びる。石川啄木記念館の山本玲子学芸員は「啄木にとって、短歌は失意にあった自分を慰めてくれるものだった」とみる。しかし、短歌を玩具にできたからこそ、啄木は「三行書き」を生み出せたとも、山本学芸員は考える。

眼(め)閉(と)づれど、
心にうかぶ何もなし。
 さびしくも、また、眼をあけるかな。
(「悲しき玩具」より)

  • 五行歌は、啄木に影響を受けて短歌を始めたという歌人の草壁焔太さんが19歳で考案。啄木のように感じたことを素直に表現しようとしたら、「五・七・五・七・七」の短歌の定型にこだわる必要はないという結論に達した。草壁さんは「自由に歌を詠めばいいと啄木が教えてくれたんです。啄木があと10年長生きしていたら、きっと五行歌にたどり着いていましたよ」と笑った。

(2012-04-20 読売新聞>岩手)
 
〈4〉ふるさとに帰った「魂」

  • 1912年4月13日、啄木は結核のため、東京で死去した。雄大岩手山北上川、なまり――。啄木は再三、歌に詠んだふるさとから、亡くなる5年前に離れたきり、戻れなかった。
  • 啄木がふるさとに迎えられたのは、没後10年を経た22年。死後、やっと才能が認められた。薄幸の歌人と言われるゆえんだ。青年たちの間で「地元に啄木の歌碑を」という機運が高まり、岩手山北上川を望む同区の渋民公園に初めて歌碑が建てられた。現在、歌碑は北海道から沖縄まで約160か所に広がる。
  • 中学時代から啄木に憧れ、函館に何度も墓参したという作家の新井満さんには、忘れられない光景がある。2007年4月、啄木の短歌に新井さんがメロディーを付けた曲「ふるさとの山に向ひて」を、啄木の母校で、代用教員も務めた渋民尋常高等小学校の後身・渋民小学校(盛岡市玉山区)の児童約40人が歌った。

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたき かな

  • 会場の同小旧校舎に歌声が響いた。「魂だけでも、ふるさとに帰してあげたくて作った。もう一度、ふるさとに帰りたいという啄木の願いがかなった」と、新井さんは胸がいっぱいになった。

(2012年4月22日  読売新聞)
 
〈5〉憎めぬ人柄役者も魅了

  • 「どこか憎めず、手を差し伸べたくなるような魅力があるんだよなあ」

昨年10月に舞台化された井上ひさし作の評伝劇「泣き虫なまいき石川啄木」を演出し、啄木の父一禎役で出演もした俳優段田安則さんは、苦笑しながら啄木の魅力を語る。

  • 劇で描かれたのは、啄木晩年の3年間。家族を故郷から東京に呼び寄せたものの、新聞社の校閲の仕事はさぼりがち。貧困にあえぎながらも、親友・金田一京助の好意に甘えて金をせびり続ける姿は人間くさい。
  • 啄木研究家らによると、残されたメモなどから、啄木が26年の生涯で重ねた借金は、今の1400万円以上だという。「端から見ている分には面白いけど、友達だったらきつい」と段田さん。それでも、今では「啄木に会ってみたい」と思うようになった。

はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る

  • 「大して働いていたわけじゃないのにね」と段田さん。啄木の作品には、他人の目線で詠んだ歌も多い。「だからこそ、時代を超えて愛される。普遍的な素晴らしさを持つ作品は、100年たっても残る」

 (おわり、この連載は宇田川宗が担当しました)
(2012-04-23 読売新聞>岩手)