〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 うたの風景 第3回」岩手日報


[クスノキ]


<碑でたどる足跡>
[啄木 うたの風景 第3回]
  永眠の地(函館市
遺稿守る第二の古里

  • 死ぬならば、ふるさとに行きて死なむ─。悲痛な望郷の思いを歌にして逝った石川啄木の墓は、古里渋民から北に約200キロ離れた函館にある。
  • 今から100年前の4月13日、啄木は東京で亡くなった。啄木の遺骨は1913年(大正2)3月に妻節子の意向により、葬儀をした東京の等光寺から函館に移した。墓標には、節子の父堀合忠操が「啄木石川一々族之墓」、啄木の歌から「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」と記した。角材の簡素な墓標だった。
  • 現在の墓は1926年(大正15)にできた。岡田健蔵(後に市立函館図書館館長となる)と宮崎郁雨が中心となった。

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる

  • 墓碑には「一握の砂」の冒頭歌が刻まれた。海と砂、カニの色彩にあふれる絵画的な情景。涙で頬をぬらしながらカニと戯れる自分自身の心の痛みを見つめ、助詞「の」音の連なりがズームアップの効果を生んでいる。
  • 啄木一周忌には、岡田が私財を提供して作った私立の函館図書館で啄木を追想する催しが開かれ、作品を集める「啄木文庫」の設立を計画。岡田、郁雨らによって函館啄木会が組織された。節子の死後、義弟の郁雨を通じて函館図書館の「啄木文庫」に資料の大半が寄託された。
  • 啄木の函館生活は132日間。文学の仲間を得て、家族と楽しい時を過ごした。没後は墓が建てられ、日記と多くの遺稿が大切に守られている。26年2カ月の漂泊を終えて「第二の古里」といえる函館で眠っている。(学芸部・小山田泰裕)

(2012-4-18 岩手日報