〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

国際啄木学会「2011夏セミ」<その3> 啄木行事レポート

《関連イベントに参加しての私的レポート》



[ママコナ]


国際啄木学会「2011年夏のセミナー」2011年7月3日(日)明治大学


<講演 -3>

  • 「現代短歌の中の啄木」三枝※之(さいぐさたかゆき)氏(※は「昴」の「卯」の左側が「工」)


(つづき)

[三] 定型論から見た啄木のへなぶり = 定型の変形化(定型を守りながら歪める)

○ 石川啄木「ローマ字日記」明治42年4月11日

啄木はローマ字日記に、「予はこの頃真面目に歌などつくる気になれないから、相変わらずへなぶってやった。その二つ三つ。」といいながら、9首引用している。そしてそのうちの実に9分の7が字余りの歌だ。


【 】の部分が結句字余りの歌。

わが髭の下向く癖がいきどおろし、この頃憎き【男に似たれば。】
いつも逢う赤き上着を着て歩く、男の眼【この頃気になる。】
ククと鳴る鳴革いれし靴はけば、蛙をふむに似て気味わろし。
その前に大口あいて欠伸するまでの修業は【三年もかからん。】
家を出て、野越え、山越え、海越えて、あわれ、どこにか行かんと思う。
ためらわずその手取りしに驚きて逃げたる【女再び帰らず。】
君が眼は万年筆の仕掛けにや、絶えず涙を【流していたもう。】
女見れば手をふるわせてタズタズとどもりし男、【今はさにあらず。】
青草の土手にねころび、楽隊の遠き響きを【大空から聞く。】


○ 河野裕子『森のやうに獣のやうに』
逆立ちしてお前がおれを見つめてたたった一度きりのあの夏のこと
六・七・五・九・七


○ 三枝たか之『農鳥』
立ち直るために瓦礫を人は掘る 広島でも長崎でもニューヨークでも
五・七・五・十二・七


結句字余りは短歌をつくるときに一番避けたい姿である。どうしても字余りにするときは別の場所にもっていき、結句は七字にしたほうがよいと私は教えている。結句が七だとそんなに乱れた感じがしないから。


○ 石川啄木
非凡なる人の如くに ふるまへる 昨日の我を 笑ふ悲しみ「東京朝日新聞 明治43.3.19)
初出のときは拙い。


非凡なる人の如くにふるまへる/後のさびしさは/何にかたぐへむ『一握の砂』
歌集にするときはこのように歌うことによって、自分を見つめる目が二歩も三歩も高くなる。
定型らしさを決めるためにわざと歪める。これは啄木から出てきたかどこから出てきたかはわからない。


○ まとめ
短歌や俳句の定型性と伝統が蓄積した感受性は、受け継ぎ守らなければいけない。先般的な歌人ほどそういう意識を持っている。近代歌人の中では啄木が突出して持っている。
定型を守るために壊す、それを一番はっきりとした形で示したのは100年前の啄木だ。
 
…講演の項おわり…
(研究発表につづく)