〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「2011 盛岡大会」<その 1 > 講演 熊坂義裕 1/2 啄木行事レポート

《関連イベントに参加しての私的レポート》



[盛岡駅]


国際啄木学会「2011年度 盛岡大会」
  2011年11月5日(土)〜6日(日)
  盛岡大学短期大学部 (岩手県岩手郡滝沢村)


[盛岡大学正門 案内看板]


<その 1 >
講演
  熊坂義裕「東日本大震災のこと 〜宮古市と啄木にも触れながら〜」
   ・盛岡大学栄養科学部長・前宮古市

  • 私は医者になってから今まで550通の死亡診断書を書いている。
  • 2011年3月11日、私は岩手県宮古市にある医院で診療していた。大震災による津波で、医院の100m先から海岸までの建物は流されるか水に浸かった。医院の建物は流されなかった。翌朝から院長と共に診療をして 1か月で延べ 3,000人を診た。
  • 津波災害時の特徴として今回のトリアージ(治療優先順位)は、黒(死亡群)か、緑(保留群すなわち軽傷)で、赤(最優先治療群)や黄色(待機的治療群)はほとんどいなかった。逃げて元気な人か死んだ人ということ。
  • 宮古市では 540人位亡くなった。チリ地震津波では、4,850人位亡くなっている。明治 29年、啄木が新聞で見たであろう三陸津波で、田老地区では住民の 9割にあたる 1,900人位亡くなっている。過去に学び、日本では最も進んでいるといわれる 10mの防潮堤を造ったが、今回津波がそれを越えた。地震の震度に関係なく津波はくる。
  • 震災後の写真は、原爆直後の広島市と同じ光景。国、県の対応は非常に遅かった。市の対応は市長含めみんな自分のことだからと必死になっている。


  • 岩手県沿岸医療施設 130カ所位のうち 60カ所以上が被災した。宮古市は病院 4カ所が全部残ったので診療に役立った。インスリン等の薬剤は通信が不安定ななかで、3月16日に大変な努力により届いた。電話もガソリンもないという状況で、歩いて避難所に行き、「インスリンあります」と紙を張って歩いた。
  • お薬手帳」を持って逃げた人は医師にかかったとき非常に役立った。
  • 宮古市の場合、仮設住宅への入居はコミュニティごとに移動し、抽選はできるだけしないことにしている。これは大事なことだ。
  • 今後、問題なのは心のケア。仕事がない、家族がない、希望がないという状態の被災者は、どこに相談したらいいかわからない。そこで無料相談窓口「寄り添いホットライン」をつくった。せっかく助かった命を失わせてはならないと決意した。

(「講演」つづく)