石川啄木の才能を評価した夏目漱石 啄木記念館長が見る2人の交わり
【岩手】夏目漱石は、面識の機会が少なかった石川啄木の葬儀になぜ参列したのか。そんな疑問をテーマに、石川啄木記念館(盛岡市)の森義真館長(69)が26日、啄木の故郷である同市渋民の姫神ホールで講演した。啄木の才能の輝きを文豪が感じ取ったからではないか――と森館長は語った。
- 講演によると、2人は同じ時期に東京朝日新聞社に在籍していた。漱石は1907年4月、啄木は09年3月に入社した。漱石は月給200円の特別社員の待遇で、出社せずに新聞小説などを執筆。啄木は月給25円の校正係だったが、「朝日歌壇」の初代選者になり、二葉亭四迷の「全集」の編集担当も務めた。
- 漱石の日記から、2人が直接会ったのは2回とみられる。10年7月で、二葉亭全集の校正のため、ロシアの作家・ツルゲーネフの小説の英訳本を漱石から借りようと、胃潰瘍(かいよう)で入院していた病院を啄木が2度訪問したという。森館長は「二葉亭全集を手がける実力が啄木にあり、そのことが2人を会わせることになった」と語った。
- 小説家志望だった啄木は、かねて漱石の作品へ関心を寄せていた。
- 06年に故郷の渋民で小学校の代用教員をしていたころの日記では、当時出版された小説について、漱石と島崎藤村の2人だけが「注目に値する」とし、さらに「夏目氏は驚くべき文才を持つて居る」と称賛した。啄木の小説「雲は天才である」は、漱石の「吾輩は猫である」に影響を受けた題名といわれている。
- 2月20日は啄木の誕生日で、生誕137年。今回の講演会は生誕記念の催しとして企画された。(杉村和将)
(2023-02-27 朝日新聞デジタル)
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