文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【後編】
ライフスタイル / 人物 歴史 好き太郎
東京での奔放な生活
- 彼の北海道での生活は1年ほど続き、その間に家族も呼び寄せています。しかし、あくまでも文学家として身を立てることを考えていた啄木は、家族を宮崎郁雨に預けて再び上京しました。中学時代からの大親友である金田一京助を頼りながら小説を書き続けますが、なかなか評価されずに絶望のどん底を味わいます。
- その後、文芸誌『スバル』を創刊すると、東京朝日新聞に就職して校正係となりました。一見するとそれなりにちゃんとやっているようです。しかし、このときも家族への仕送りはせずに給料の大半を遊興に使い、かなり乱れた生活を送っています。
『一握の砂』、そして病
- それでも、歌人としての才能があった啄木は、1910年には24歳で代表作『一握の砂』を発表しています。
- しかし、それでも一家を養っていくには足りず、困窮したままでした。啄木は1日でも早く貧乏生活に別れを告げようと夜も働きますが、1911年には慢性腹膜炎を患い、思うように働けなくなります。その後、腹膜炎と肺結核を患い、最期は自宅で療養することになったものの、貧困のため医者にも診てもらえず薬も買えない状況でした。
- そうして翌年、肺結核を患っていた母・カツが3月7日に死去すると、その後を追うように4月13日にやはり肺結核で亡くなりました。享年26歳。
遺骨が北海道へ
- それから1年後の1913年、急に肺尖カタルの症状が重くなった節子は、東京に置いてきたままの夫と義母の遺骨が気になり、引き取りたいと訴えます。その話を聞いた、函館の図書館主事である岡田建蔵が上京して、等光寺を訪れて遺骨を引き取りました。そして帰郷して遺骨を節子に手渡したのが3月27日のことでした。
- 間もなく、5月5日に節子は安堵したように息を引き取りました。岡田や、文学仲間だった宮崎郁雨らは、函館市の立待岬の海沿いに墓を建て、6月22日に啄木らの遺骨を埋葬しています。
- 現在も、立待岬へ通じる坂道の脇には「石川啄木一族の墓」と記された木標があり、その近くには将棋駒型の墓があります。今でも、多くの人が手を合わせに訪れています。
(2022-11-08 japaaan magazine)
文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【後編】 | ライフスタイル - Japaaan