〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(㉑ 東京(下))


[オリーブ]


「啄木 賢治の肖像」

 ㉑ 東京(下)
  孤独、望郷の念 歌に

  • 「夜、例の如く東京病が起つた。(中略)東京に行きたい、無暗に東京に行きたい。怎せ貧乏するにも北海道まで来て貧乏してるよりは東京で貧乏した方がよい。東京だ、東京だ、東京に限ると滅茶苦茶に考へる」。啄木は北海道で日記にこうつづる。自ら「病」と例えるほど、上京を切望する気持ちは抑え難かった。
  • 1908(明治41)年4月、家族を北海道・函館に残して22歳で上京。森鴎外をはじめ伊藤左千夫長塚節真山青果ら、当時の小説家が作品の舞台の多くに選んでいたのが東京。啄木も、中央文壇で小説を書くことにこだわった。
  • 本郷区菊坂町(現文京区本郷)にある下宿、赤心館に金田一京助と同宿し、上京1カ月あまりで「病院の窓」「菊池君」など6作品を仕上げ、売り込みに奔走するも失敗。そうした挫折を短歌を作ることで紛らわし、3日間でおよそ250首をつくったこともあった。
  • 啄木は金銭的に困窮した。甲南大の文学部教授の木股知史さんは「純文学の小説家が文学だけで食べていけるようになるのは1919(大正8)年ごろと言われている。啄木が文学だけで身を立てようとしたのは無理があった」と分析する。
  • 啄木は1909(明治42)年3月から東京朝日新聞で校正係として働き始め、6月には妻子と母が上京。本郷弓町の理髪店「喜之床」2階で暮らしはじめる。1910年、第一歌集「一握の砂」を刊行。収められている望郷や都市での孤独を詠んだ歌の数々は、多くの共感を集め読み継がれる。木股さんは「この時代、夢を持って東京に行った青年たちが大勢いた。啄木の文学は、作品に共感するそうした無名の青年たちの存在に気付かせ、照らし出している」と強調する。
  • 晩年には病のため出社できず、病魔は家族にも及ぶ。1911年、小石川区久堅町(現文京区小石川)へと転居。1912年(明治45)年2月20日を最後に、日記の記述も途絶える。母が亡くなった約1カ月後の4月13日、26歳で人生の幕を閉じた。
  • 啄木が苦悩の日々の中から生み出した作品の数々は時代や国境を越えて今なお、私たちの心を打つ。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-05-25 岩手日報
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