〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(⑳ 東京(上))


[サクランボ]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑳ 東京(上)
  「文学で成功」に挫折

  • 啄木は、3度にわたり東京で暮らした。
  • 1度目は「明星」に歌が掲載された後の1902(明治35)年10月。16歳で盛岡中学校(現盛岡一高)を中退し、文学で身を立てるべく上京する。甲南大学(神戸市)文学部教授の木股知史(きまたさとし)さんは「日露戦争の前、富国強兵策により東京には軍需工場などが建ち、人口が一極集中していた」、「啄木は、実業界で成功するがごとく、東京に出て文学で成功しようと考えていた」と背景を解説する。しかし、11月下旬からの日記には体調不良を思わせる言葉が目立ち、翌年2月、迎えに来た父一禎とともに渋民村へと帰る。
  • 恋人で後の妻となる節子や鉄幹に励まされ病と心の傷が癒えた啄木は1903年5月、「岩手日報に評論「ワグネルの思想」を連載。また、最初の詩稿ノート「EBB AND FLOW」を作成し、さまざまな雑誌に詩を発表するようになる。
  • 2度目は、1905年10月、詩集を出版して節子との結婚費用を捻出するために再び東京へ赴く。翌年5月、第一歌集「あこがれ」が発行された。しかしほとんど売れなかったという。啄木は盛岡へと帰り、1906年4月からは母校、渋民尋常高等小学校(現渋民小)代用教員となる。
  • 3度目の上京は1908年4月のこととなる。


☆不自然な欲望見抜く 作品に見る啄木
   考へれば、
   ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。
   煙管をみがく。

  • 「悲しき玩具」に収められたこの歌の初出は1911(明治44)年の「早稲田文学」。「本当にほしいと欲求するものは、あるようでいてない」と、煙管を磨きながら考える様子を表現している。
  • 木股さんは「この歌は平易ながら、思想はとても深い」と鑑賞する。
  • 啄木が上京した明治中期から大正中期までの約30年間は、山手線内側の人口は約300万人で「経済テイクオフ」とも言われる。そうした時代の中、啄木は都市の人々の欲望を見つめる。
  • 「商品として販売されているものには消費の欲望をかき立てられる。しかし、それが本当にほしいものかというと、どうもそうではないような気がする。生活に備わっている理性のようなもので、市場社会によってつくられた欲望の不自然さを見抜いている」と、啄木の視点の鋭さを読み取る。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-05-18 岩手日報
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