〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(⑯ 仕事)


[ハナミズキ]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑯ 仕事
  最先端の「人間」教育

  • 啄木は生涯で2度、代用教員として教壇に立った。その教育実践は当時の最先端と評価され、現在もたたえられているという事実は、残念なことに、意外に知られていない。
  • 古里の渋民尋常高等小学校で代用教員を務めたのは、1906(明治39)年4月からの約1年間。当時の日記や評論には、崇高な教育の目的が掲げられている。
  • 「教育の真の目的は、『人間』を作る事である。決して、学者や、技師や、事務家や、教師や、商人や、農夫や、官吏などを作る事ではない。何処までも『人間』を作る事である。唯『人間』を作る事である。これで沢山だ。智識を授けるなどは、真の教育の一小部分に過ぎぬ」  (1907(明治40)年3月1日「盛岡中学校校友会雑誌」第9号「林中書」)
  • 教育者啄木は、情熱を持って子どもたちを教えた。1890(明治23)年に教育勅語が発布され、画一的な教育が強いられる時代だったが、「自己流の教授法」を試みた。放課後に課外授業として英語を教えたり、今でいう性教育も行った。
  • 国際啄木学会名誉会員で元会長の近藤典彦さんは「戦後日本でも最先端の教育実践を、啄木はその40年も前にやっていた。当時の日本の小学校教員として、最高の教育実践だった」と高く評価する。
  • 「予は衷心から、天を仰いで感謝する。予に教へらるる小供等は、この日本の小供等のうち、最も幸福なものであると、予は確信する。そして又、かゝる小供等を教へつつ、彼等から、自分の教へる事よりも以上な或る教訓を得つつある予も亦、確かに世界の幸福なる一人であらう」。啄木は、代用教員としての喜びを日記にたびたび記す。
  • しかし、高等科の生徒とともに校長排斥のストライキを敢行し、免職となった。その後、一家離散して函館へと渡った啄木は、弥生尋常小学校で2度目の代用教員となるも、函館大火に見舞われその地を離れることとなった。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)

(2016-04-20 岩手日報
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