〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(⑦ 恩師)


[ウメ]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑦ 恩師
  生涯を見守る教育者
   富田小一郎、新渡戸仙岳

  • 啄木の人生に大きな影響を与えた師の一人が、盛岡中学校1〜3年次の担任だった富田小一郎。啄木は3年次の1900(明治33)年7月、同級生7人と引率の富田ともに陸前高田や大船渡方面へ修学旅行に行く。「丁二会旅行」と銘打ち行われた旅行は盛岡、水沢、一関、陸前高田、釜石などを回った。
  • 旅行中、啄木は富田の一挙手一投足をまねてからかったが、富田は怒らなかったという。
  • 啄木は1909(明治42)年、東京から岩手日報に寄稿した「百回通信」の中で「富田先生が事」として、授業を抜け出したこと、連日叱られたことなどを挙げ、当時を懐かしんでいる。


   よく叱る師ありき
   髯の似たるより山羊と名づけて
   口真似もしき
                  石川啄木「一握の砂」

  • その百回通信の掲載のきっかけをつくったのは、当時岩手日報の客員だった新渡戸仙岳。啄木が盛岡高等小学校(現下橋中)に入学した時の校長を務めていた。
  • 1905年、啄木が東京で第一詩集「あこがれ」を出版した後に、盛岡で文芸雑誌「小天地」をつくった時は、啄木の依頼にこたえ、仙岳は俳句論を寄稿した。
  • また、1909年10月、しゅうとめとの不仲などから啄木の妻節子が娘京子を連れて家出した時に、親友の金田一京助とともに手紙を出して詳しい事情を打ち明けたのが仙岳だった。仙岳は、何度か節子の実家に足を運び説得。同月末に節子と京子は帰ってくる。
  • 啄木が亡くなって3日後、生涯の師である仙岳は、岩手日報に追悼文を書いている。


(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-02-17 岩手日報

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