〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報 (⑤ 友(上))


[アオキ]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑤ 友(上)
  歌集に支援への感謝  金田一京助

  • 啄木は26年の生涯で数多くの友人をつくり交流した。借金や不義理を理由に絶交した人もいたが、死ぬまで啄木を物心両面で支えていたのが同郷の親友、金田一京助だ。
  • 出会いは、啄木が1895(明治28)年4月、盛岡高等小学校(現下橋中)に入学した時。
  • 1908(明治41)年に上京し、京助が暮らしていた本郷区菊坂町(現文京区本郷)の赤心館に下宿する。啄木は収入もなく借金は増え、金が工面できず自殺しようと決心したが、京助が肩代わりしてくれたことで命を助けられたこともあった。
  • 1909年に啄木の母と妻子が上京し、啄木は本郷区弓町(現文京区本郷)の喜之床へと引っ越す。しゅうとめとの不仲などから妻節子が娘京子を連れて家出した時には、「かかあに逃げられあんした」と京助に助けを求め、戻るよう手紙を書くことを頼んでいる。
  • 第一歌集「一握の砂」には京助への献辞を記し、最大限の感謝の気持ちを表した。
  • 京助の孫で日本語学者の金田一秀穂さん(杏林大教授)は「啄木が京助に迷惑をかけたというのが通説だが、誰かに頼りにされることを喜ぶような人だった京助は、啄木が弟のように慕ってきたことがうれしかったのだろう」とみる。「『情けは人のためならず』と言うが、啄木に情けをかけることで京助が力をもらっていたのだろう」と思いをはせる。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-02-03 岩手日報
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